オリンピック総論と諸々


「Nebular for Thirteen」をSTUDIO VOICE ONLINEにて紹介して頂きました。
STUDIO VOICE ONLINE



TOWER RECORDS 渋谷店 AMBIENT/ELECTRONICAのコーナーにて「Nebular for Thirteen」を試聴機に入れて頂きました。
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「Nebular for Thirteen」より「Blue Nude」「teardrop」をFM ODAWARA78.7MHz AOBASHI HOURにて放送して頂きました。
Aobashi Hour



バンクーバーオリンピックが終わった。まだ終わってないけど。
最初のうちは、高橋大輔くん素敵だなとか、アイスホッケーの試合にエキサイトしたりしていたけれど、だんだん違和感が募り、しまいにニュースも見なくなった。
いつものことではあるけれど、アスリートの好成績を言祝ぐメディア、アスリートの一挙一動を論うジャーナリスト、アスリート自身の言葉にさえうんざりしてしまい、何れにもシンパシーを感じることができない。 おまえのためのオリンピックじゃないと言われたらそのとおりなので、弊履のごとく無視することにしたのである。(たまにちらちら観ますけど。)


だって、なんでアスリートがぼくら国民に「不甲斐ない結果で申し訳なかった」なんて言うのさ。
確かに自身のスポンサーには、「ごめんね結果だせなくって」ぐらいは申し上げればいいかもしれない。(べつに、広告塔が目立たなかったからって広告に責任はないけど、ほんとは。)
でも、ぼくらは手前勝手に応援してるんだぜ。愛国心を沸騰させて勝手に応援したり蔑んだり、はたまた他人の成績結果に一喜一憂したりするぼくのような阿呆に謝る必要なんてまったくない。自分の生活のため、名声だとか金だとか、そういう根も葉もないことのために持てる力を捧げればいいのではないか。
そういうごく個人的な進歩史観をぼくら凡人はどきどきしながら眺めればいいのではないか。
・・・とつくづく思うのだけれど、
「メダルとれなかったけど、あなたたちには関係ないし、ほっといてくれ」なんて言う
高慢なアスリート、ビッグマウスにして圭角のある人間をぼくら日本人は大嫌いなようである。


国母選手なんてすごく可哀想だ。
腰パンがだめ、それってスキー連盟会長の「好み」じゃないのか・・・。
べつにぼくは、国母選手の「自己主張」を擁護しているわけじゃなくて、(彼のエクスキューズ自体には何の深みもないみたいだし。)そうではなくて、個体の差異、異端の出現がゼロになってしまったら、「競技」そのものの概念がなくなってしまうんでないの?と申し上げたいわけです。いろんなやつがいるからオリンピックなんでしょ、と。


国母選手は残念ながら、ロジカルに反論するだけの言葉を持っていなかったので、渋々謝罪していたけれど(そもそも、言葉なんていらねぇ、俺は俺のやりたいやりかたでやる、というのが彼の真骨頂みたいだし。)誰か代弁してやればよかったんだ。「そういうルールありましたっけ?」って。
たぶんみんなそう思っているはずだけれど、知る限り国母選手擁護派が非常に少ないので、ぼくがこうしてぼそぼそと拙劣な愚痴を書き殴っているのである。


そもそも、アスリートの要諦は身体能力の多寡だろう・・・。
って、スキー連盟会長にフツーに反論したら、なんて答えるんだろう。
武士道精神でも懇々と説くのだろうか。あるいは「高校教師」になるんだろうか。
「そういうルールありますか?」
「そういう問題じゃない、モラルの問題だ。」


あ、でも今気付いた。ある意味、このスキー部長は正しい。
昨今、みんなが「自分探し」「世界にひとつだけの花」を、鼻息ふぅふぅさせて躍起に探している時代趨勢のなか、
「個性?非常に不愉快だ!」って(笑
退嬰的というより、この会長こそ個性的なんじゃないか?実は。


彼の真意はきっとこうだ。
「個性などというものは存在しない。服装とは、何らかのイデオロギー的記号でしかない。それが個性的だというならば、それは他者によって賦与されたものにすぎない。個性は幻想だ。」
なるほど、部長。個性は幻想なのですね。ばかなかしいけれど、そうかもしれないスね。
やっぱりスキー課長を支持することにします。国母くんは猛省しなさい。


乱筆御免。テレビがオリンピック一色なのでやきもきして、焼酎飲みすぎただけです。
でもフィギアスケートは観たいです。