個人的に死ぬ、二台で弾く

訃報が次々届き、喪に服す折も増え、哀悼の意を表明している人々がたくさんいる。
死を悼むというのは、ごく個人的なものだ。もしあなたが個人的に故人を追惜したいと思うのなら、せめて「弔意の共有」への欲望だけは自制するべきなのではないかと思うけれど、それはぼくの個人的な意見だ。


去年親しい人を失った。切迫した死を目の前にして、「最期は苦しまなかった」とか「天寿をまっとうした」と言われても、ぜんぜんまったく理解できなかったし、彼が今はもうここにいないという事実が事実として飲み込めなかった。
「死はきっと、孤独で冷たくて辛いものだよ。誰とも分かち合えないし、共有もできないのだから。」と、死ぬことを、水に溺れることのようにしか想像できないぼくは、少なくともそう感じたし、死んでしまった彼が可哀想で身を引きちぎられる思いさえした。
でも、もちろん、悲しむことも苦しむことも、出来るのは生きている人間だけだ。故人が何を思い、何を望んでいるのかわからないからこそ、突き刺さる悲しみにも、肺腑をえぐるような喪失感にも、時間をかけて耐え忍ぶことができるのだとぼくは思う。死者のために何かをなすという行為は、たとえそれが温かな気遣いや、あるいは親しい人の弔いであっても、本質的には不遜であることにかわりはない。
死者への追悼の意や、故人の生前を忍ぶことを否定しているのではない。「死者のために」は何ひとつ正しいことは出来ないし、効果的な祈りもないのだという無力の態度からしか、死を悼むことはできないと思うだけだ。
なぜなら、死者を弔うことができるのは「死者が本当は何を望んでいるのかまったく見当もつかない」生者だけだからだ。
今まさに悲しみ、苦しむことのできる、我々だけだからだ。



2012.2.18 (土) / 喫茶茶会記
2/18は、本間太郎氏と渡部正人とともに、二台ピアノ+パーカッションのライブをします。
30年前の現在40〜50歳のキッズたちの心がときめくような曲やります。
ライヒやら、レディオ・ヘッドなんてやりませんから、心していらしてください。
http://gekkasha.modalbeats.com/



2/15 HONZI LOVE CONNECTION 4 / 吉祥寺スターパインズカフェ
HONZIさん追悼のライブで、NGATARI少し歌います。
出演 : スパン子, 熊坂義人, 良原リエ, 他
http://www.mandala.gr.jp/spc.html


個人的には音楽と、追悼の意はまったく別のフェーズにある気がするけど、上にも書いたとおり、それはただのぼくの意見であるし、純粋な音楽は素敵に違いがなく、生前を忍ぶことの懇情というのは、さらに素敵なものに違いない。

梅の香のトライアド

あけましておめでとうございます。
年末年始は京都に行ったり、鍋をつつきながらウノをしたり、南仏料理を食べ、映画を観たりして過ごしました。実家に帰っておせち料理を食べ、靴を新調して、水と塩を注文し、たくさん本を買った。
周りのひとたちが「今年の抱負」を語っているのをみて、あわてて今年の戦略をと思ったけれど、一年間の青写真というとスパンが長すぎて上手くスキームを立てられない。ぼくの場合三ヶ月くらい先の見通しが限度で、100日以降の未来と言われても想像の他みたいだ。なので春先までの計画を手短に書きます。これらは自分の備忘のためであって告知ではないのであしからず。

まず今月は、じゃぶじゃぶと新曲を書く。これはファーストプライオリティー。録音をして、編曲やサウンドクリエイションをどうするか、どんな楽器を使うか、あるいは誰に依頼するかを決める。来月以降の作品作りのマスタープランみたいなものですね。それと、そうだ。デュシャンの展示に行って、ブレッソン特集を観に行く。この二つは何が何でも成し遂げなければなるまい。それから、友人の展示に行って、新年会に行き、迎春会を開く。ピアノを練習し、カレーパーティーもする。
来月は、、、止めよう、二ヶ月分の計画を遂行できる自信がない・・・。

ともあれ、今年もみなさんに万福がありますように。


http://blog.tatsuru.com/2011/12/29_1301.php

―ある語を書き付けると、それに続く可能性のある語群が脳内に浮かぶ。
原理的には、文法的にそれに続いても破綻しないすべての語が浮かぶ(ことになっている)。(中略)
自分の思考はあたかも一直線を進行しているかのように思える。
ふりかえると、たしかに一直線に見える―


これは文章を書くときに起こる「パラダイム」についての考察だけれど、このテキストの「語」を「音符」に、「思考」を「音楽」に置き換えると、ぼくにとっての作曲行為・経験的な作曲において、もっとも枢要なことがらを言い得た文章になる。
五線譜にドの音を置き、その上に、あるいはその次の余白に何の音を配置するか、あるいは配置しないかを考え、またその次の音を紡いでゆく繰り返しにおいて12平均律の作曲は達成される。あらゆる可能性を吟味し、何を優先的に配慮するかを考え続けることこそ、作曲の本質だ。(たぶん)

―例えば、「梅の香が」と書いたあとには、「する」でも「匂う」でも「香る」でも「薫ずる」でも「聞える」でも、いろいろな語が可能性としては配列される。私たちはそのうちの一つを選ぶ。だが、「梅の香がする」を選んだ場合と、「梅の香が薫ずる」を選んだ場合では、そのあとに続く文章全体の「トーン」が変わる。「トーン」どころか「コンテンツ」まで変わる。うっかりすると文章全体の「結論」まで変わる。―


このテキスト自体もともと音楽的な表現で書かれているけれど、上記の文章の「語群」を「音名」に交換するとこうなる。

―例えば、「ドとミ」と書いたあとには、「ファ♯」でも「ソ」でも「ラ」でも「シ」でも「レ」でも、いろいろな音が可能性としては配列される。私たちはそのうちの一つを選ぶ。だが、「ドとミとソ」を選んだ場合と、「ドとミとシ」を選んだ場合では、そのあとに続く文章全体の「トーン」が変わる。「トーン」どころか「コンテンツ」まで変わる。うっかりすると文章全体の「結論」まで変わる。―

恥ずかしいからといって、単純な和音・和声進行を避けていると、力強さに欠ける、あるいは下手したら何も語らないまま終わってしまうというのは、自らへの苦言として、ある。あるいはいつも自戒している。「梅の香が」のあとに、「聞える」と続けたら、詩的ではあるけれど奇を衒った感じがしますよね。「詩的ではあるけれど、奇を衒った」音、協和しない音列をいかに「トーン」を保ったまま採用するか。これは今までの作曲でぼくが常に考えていたことだ。スカルラッティスクリャービンは、そのへんのバランス感覚が非常に優れているんだよな。
閑話休題・・・、この文章は最後に次のようにまとめられている。

―でも、実際は無数の転轍点があり、無数の分岐があり、それぞれに「私が採用しなかった推論のプロセスと、そこから導かれる結論」がある。分岐点にまで戻って、その「違うプロセスをたどって深化したアイディア」の背中を追いかけるというのは、ものを考える上でたいせつな仕事だ。―

未知の対話とカノン

多事多端ゆえに、作曲の時間が一日四時間しか取れない。でも四時間あれば一つのセクションは書ける。三時間では書けない。三時間ぐらいあれば、楽想ひとつぐらいひらめく気もするけれど、睡眠と同じで深く潜るためにはウォーミングアップとクールダウンが前後に必要なので、帰宅してドアの鍵をがちゃがちゃ開けたり、鉛筆をこりこり削ったり、鼻かんだり、それらの準備体操の時間を積み上げていくと、楽譜と向き合うのはやはり正味三時間となる。短い。集中力の涵養にはもってこいかもしれないけれど。

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さいきん、Ametsub氏のアルバムばかり聴いている。二年前ぐらいに初めて試聴したのだけれど、聴いた瞬間、「新しい」と思った。「新しい音楽」の「新しさ」を言葉で説明するのはすごく難しい。感じたのは技術的なことというより、その音楽へのアプローチの仕方だからだ。もちろん音は鋭利で、清く、暴力的なまでにリリースを切ったピアノの音は、クレーやミロのように絵画的で清潔感があり、その新鮮さに感動すらするのだけれど、その音楽自体が新しい方法で作られたわけではないはずだ。それでもAmetsub氏の音楽は、新しい言語で語られていて、その音楽の時間のなかでは豊かな対話が聴こえる。

前衛芸術とは新しい方法で作られた芸術のことではない。
新しい語法を希求する姿は勇ましいかもしれない。でもパセティックだ。
前衛的な音楽家というのは、「聴きなれない旋律」や、「真新しい音」や、「奇矯に聴こえる音像」を追い求めるひとではない。
もし初めて聴いた音が前衛的だというなら、それらは時代の推移とともに、あるいは人間の成長とともに当然その前衛性を失うからだ。前衛的というのは、その語義からもわかるとおり、対になるもの(あるいはひと、あるいは主義)があってはじめて有意となる。
音楽の場合、対になるものは、もちろん聴き手だ。
自分にしか理解できない新しい語法で話す人間は、当然その新しさゆえに、他人とのコミュニケーションを断念するしかないけれど、彼の音楽には聴き手を拒絶するような音は何ひとつない。
結局、聴き手を置き去りにするような音はぜんぜん新しくないのだ。ほんとうに前衛的な音楽は、誰をも置き去りにしないし、誰かに上書きされることもないのだとぼくは思う。それは常に、既知と未知の狭間にあって、だからこそ他者との豊かな対話の可能性を秘めている。

というようなことを、明日のototo詩トークショーで話そうと思っていたけれど、ここで書いてしまったので、別のことを話します。
楽しいこと話そう。希望とか、善意とかについて話そう。
http://ototoshi.seesaa.net/

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カノンというのは、演奏者たちが正確に譜面を辿る一方、聴衆は主題に熱心に耳を澄ますのだけど、複数の声部を追っているうちに彼らは旋律を見失い、あるいは追従される。その混濁した音列の束のなか、突然空から誰も弾いていない音楽が、聴こえるはずのない旋律が降ってくる、そのようなカノンにしか、ポリフォニー的価値はないと思うよ。
自戒の念をこめてツイートし、ただいま弦のアレンジを書いています。

曲線と探し物


最近、様々なものに飽きている。
愛聴していたいくつかの音楽に飽きた。好きな作家の文章を読んでいても、なんだか文体自体にうんざりしてしまう。底無しに愛していたクリーム鯛焼きも買わなくなった。ついでにiphoneのフォルムにも飽きた。


人間は飽きる生き物だ。
恐ろしく飽きる。際限なく飽きる。
衣食住はもちろん、音楽にも飽きるし、文章や思想に飽きて、パートナーにだって飽きる。
いつ、どれほどの時間をもって、どんなときに飽きるのかわからないけれど、どんなに偏愛しているものでも、人は同じものを愛し続けることはできない。
そもそも、飽きるという動詞は、「飽きた」という過去完了の形でしか顕在化しないので、その「瞬間」が訪れるまで、わたしたちはそのリミットが刻々と近づいていることに気がつかない。
だから男女の別れは突然訪れるし、革命はいつもドラスティックなものだし、本屋は減っても古本屋はあまりなくならない。


「いやそんなことはない、オレは妻を数十年愛し続けているし、飽きたことなんて一度もない。」という人がいるかもしれない。
あるいは「50年間聴き続けている音楽がある」という人もいるかもしれない。
でももちろんそれは彼がそれらに「飽きなかった」わけではない。


彼自身がその数十年の間に変化したのである
生涯唯一無二の伴侶とは、ずっと同じ気持ちのまま何も変化することなく相互に恋をしている二人のことではない。
(そんなものは気持ちが悪すぎる。)
二人が絶えず変化し続け、その変化の「曲線」を深く愛し合うという形で、生涯のパートナーは成就されるのである。
(たぶん。うん、たぶん。)


あるいは彼は生涯同じメロディーを愛し続けているかもしれない。
けれど、聴く彼自身が変化しているのだから、彼の記憶における音の染み込み方もずいぶん変化するはずだし、
音の文脈だってもちろん変わってくるはずだ。
人は「過去にそのメロディーを愛した自分」を俯瞰するという形で、記憶を愛し続けているだけである。
って、ペシミスティックに過ぎるかしら。


ともかく、人は飽きないことには、次のパラダイムにシフト出来ないからね。
そのことはずいぶん前に色々書いた。
こうやって同じことを書きまくって、自分にうんざりするのは、わりといいことだと思う。



餃子をせっせと作る。
塩が見当たらない。胡椒粒の隙間に身を隠したとしか思えない。
探し物が何故見つからないかというと、ぼくたちは、その探し物が、どのような色形で、どのように隠れているかを
事前に想像してしまっているからだ。間違いない。



Twitterにハマってます。
Twitterって、言葉が湯水のごとく消費されるので、"秘匿なパブリック"という感じがするけど、
「その言葉を誰が発信したのかは、この際あまり重要ではない」という印象があって、ぼくは結構好きだ。
良くも悪くも今的だ。



最近、映画をよく見る。
ぼくは映画嫌いを公言しているので、夜中にこそこそTSUTAYAに行った。
本当はクレヨンしんちゃんの映画と、小曽根真のショパンを探しに行ったのだけれど、どちらもなかったので
「人生に乾杯」(原題はKonyecというハンガリーの映画)やスペル(B級ホラー)など、いくつかの映画を借りた。
Konyecは牧歌的な話だったのでほんわか和みました。
ところで「アニソン」がアニメソングのことだって今日知りました。
フザケたアジア人アイドルの固有名かなにかだと思っていた。いや、ほんとに。



1Q84 book3 読了
まだ読んでない方も多いと思うので、あれやこれや書きませんが
この本はユング自伝から想起され、書かれた物語だと思う。
何故そう思ったのかはまた次回。

そういえば、村上春樹の本ではじめて「作者」が登場した。ナレーションのような俯瞰的な文章が一部あって、びっくりした。



いよいよ、5/16はLinus vol.6です。
今回は暴力的なまでに素晴らしい出演者群だと思っているので、是非遊びにいらしてください。
楽しいよきっと!
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100507-00000008-cdj-musi


2010.5.5 / MADO LOUNGE SPICE
f:id:monobook:20100512004147j:image

盛り写メ

徹夜明け。
じょじょに曲が仕上がっていく。
パソコンの画面を凝視するのにも倦んできたので(といいつつ駄文書いてんだけど。)
朝っぱらからテレビを見る。
最近、「盛り写メ」なるものが流行っているらしい。
何、盛り写メって。

ギャル語で過剰に化粧をすること。ギャルに独特の化粧法が「顔に塗る」というより「顔に盛る」ようなイメージがあることから言われるもの。「アクセサリーを過剰に身につける」場合にも言われる。また最近では、さらに一般的に「過剰に演出する」ことについて「盛る」と表現する例が増えている。モリオ、盛り写、盛りプリなどのような複合語を作る場合もある。―新語辞典より


「盛り写メ」
凄まじい言語感覚である。
「盛り」に含意されている本来(本来というか、むかしの)の意味は、「勢いづいている」「絶好調」などのニュアンスである。女子高生は、そのような古臭い語感にうんざりして、あるいは飽きて同じ概念を違った言葉で表現するようになった。(たぶん)

「盛り写メ」の「盛り」は「過剰に演出すること」を意味するらしい。

ぼくも「話を盛った」ぐらいは使うけれど、「演出する」という意味か。なるほど。
でも、ぼくが今判読した「盛り」のニュアンスと女子高生の使う「盛り」とでは、だいぶ乖離があるんだろうな。さすがに女子高生の友達も、もう久しくいないから(さみしい)生の使い方に触れる機会もないけれど。


ぼくが高校生のころにも新語をどこからともなく運んでくる、コウノトリみたいなやつがいて
彼の発語する新語はまたたく間に学校中に浸透した。
ぼくはそのころ、「ウチの高校ってすげーぜ!最新流行の言葉をキャッチアップしてんぜ!」と息巻いてそれらの新語を使いまくっていた。
たとえば、

「イカチー」

もちろん、「いかつい」である。元々の意味は「ごつい」「威圧的な」辺りだろうか。
その「イカチー」を、ぼくらは「怖い、強い」という意味で使いはじめ、転じて、「ヤバイ」というニュアンスにまで昇華させた。
用例を示そう。


「あいつらイカチくね?」
「今日数学の小テストあるじゃん、マジイカチーんだけど」


・・・なんて乏しい表現なんだ。バカかオレら。
バカだけど、かわいいよね。そして幾星霜「イカチー」は消えた。
「盛り」もこのまま繁昌し続けるとは思えないから、使い捨てなんでしょうね。イデオロギッシュな。
別に、使い捨て言語が悪いわけじゃなくて、語彙の増やし方に問題があるのだ。
(だって、言葉って流動的なものだし、時代ごとのイデオロギーと、年代別バックグラウンドにまるごと内包されているもんだから。)

複数の概念や、グラデーションを描く色とりどりの感情を単一の語彙に委ねてしまう人間は、バカのままだけれど、(たとえば、「うぜぇ」とか「さみぃ」とか)言葉をころころとダイナミックに開発して、語彙を獲得していく女子高生には深い敬意を抱くのである。



これを読んだ女子高生諸氏、ぜひ「ことばのつかいかた」レクチャーしてください。

密やかな食卓

母、お杉 「又八、この世に強い人なんておらん。強くあろうとする人、おるのはそれだけじゃ。」
(バガボンド 31巻 / 井上雄彦)

僕 「―強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ。」
(風の歌を聴け 121頁 / 村上春樹)

シンクロニシティ。とは言えないけど、この作家ふたり、いろんなかしょで、(思考は違えど) 同じことを違った文脈で語っている。


イルカ漁廃止、欧米の活動家らが訴え―町長らは反発


イルカ漁の廃止などを訴えるオバリーさん(左、和歌山県太地町立くじらの博物館で)
 欧米の反捕鯨運動活動家やジャーナリストら15人が2日、和歌山県の太地町立くじらの博物館や太地町漁協を訪れ、イルカ漁の廃止などを訴えた。

(2009年9月3日 読売新聞)


何がすごいって、、
日本の100パーセントに近いひとたちが、イージーな論客が、「余計なお世話だよ、異文化の慣習にケチつけんじゃんねぇ」

と鼻の穴膨らませて憤慨していらっしゃる。いやすごい。日本人が一致団結して黒船来航に猛反発してる。
マックやスタバをこよなく愛し、スローフードをはじめ欧米文化をありがたがるくせに、
自分たちの慣習を非難されると、激怒するんだな。イチロー並に。
まったく慈愛に溢れた抗議だ。
決して捕鯨を生業としている人々への気遣いじゃないだろうけど。

「君達も、数多の犠牲の上で生きてるじゃないの?っていうか、牛は良くて鯨はダメなの?」
という論拠はあまりに安直だし、短慮軽率ってもんだろう。


「何が食ってよくて、何がダメなのか」
少し考えればわかることだけれど、「くじら食うこと」の是非は、この論争の渦中にて問題にはならない。
(そんなもの問題にしたって、答えはない。)
他人の食卓を、冷蔵庫のなかみを、鍋の中を掻き出して、目を凝らしては眉間にシワを寄せていたんじゃ、ずっと同じところをどうどうめぐりです。


唾棄すべきは、「とりあえず、隣人の奇習を批判していれば、当面わたしの"奇習"は担保される、大丈夫」と無意識に信じてしまっている、あなたであり、わたしです。
この人々は、自らの慣習がトレンドでなくなれば、批判材料を探し始めるし、
はやりものの「外的奇習」があれば、いちはやくキャッチアップしようとする。
ようするに、奇習とは「トレンドではない」ってことです。
そう考えるだけで、ずいぶん違う風景が見える。


・・・あまりに捕鯨保守派が圧倒数を占めているので、ケチつけたかっただけです。
捕鯨問題に定見なんぞないけれど、(つまり、カワイイ女の子と鯨食う段になれば、がむしゃらに頬張るということです。)
ぼくは、「鯨の美味しい食べ方」をみんなで考えていたほうがいいと思うけど。
そんなことは誰も賛成してくれないだろうから、今夜はこっそりサバの味噌煮を頂きます。
ハッピー。

:

バガボンド読もう。

おまえのせいだ、という嘘

なんか気持ち悪くないですか?選挙。
ぼくは、メディアにも、為政者にも、手のひらを返したようにさらっと政権をひっくり返しちゃう国民にも怒りを禁じ得ない。まぁ、しっかりぼくも国民だけどさ。


TBSの投票結果ライブ中継の画面の上のほうに、
『選挙への感想』みたいなメールを紹介していたけれど、
『自公は猛省を!』とか、『この結果が国民の麻生さんへの意見だと思います。』とか
『圧勝に驚いています。民主党を応援しています。』など、
おまえらついこのあいだまで、小泉政権支持してたじゃん。どういうことよ、この君子豹変的な身振りは。


季節風のように、あっさり風向きの変わる民意の構造を誰か説明してくれ。
自民党と民主党の政策的オプションの違いやら、マニフェストやらの違いなんて
五十歩百歩だろう。どっちにしろドラスティックな変化なんてないんだから。


中川昭一の「飲酒問題」とか、麻生太郎の「失言」だけが、失態の理由なんスか?
それともちんけなマニフェストが気になるのか?
やっぱりどうでもいいんだろう、ボスが誰かなんて。


たとえば、どちらかの政党が政権を握っているせいで、酷く虐げられていると思っている人、
家族が貧窮状態だったり、傘が盗まれたり、女の子にフラれたり、鼻炎が治らない、などの遠因が、現在の為政者にあると思っている人、
それは、あなた自身に問題があるのよ。


リストラの対象になったのも、あなたの能力に問題があったのだし、
SUICAのチャージの減りが速いのも、あなたのせいだし、
「歩合」を「フゴウ」と平然と読んで失笑されたのも、あなたのせいだ。


人は、「自分の不幸は、誰かが招いたものであって、その原因さえ取り除けば、自分の幸福は担保される」と妄信している。
(ぼくもけっこう思っている。)


この選挙結果は、与党に落ち度があったからではなく、
この黒く渦巻くような国民の「他責感」がもたらしたように思えて仕方がない。
暴論か?あながちそうではない気がするけど。