新年


遅ればせながら、明けましておめでとうございます。


クリスマスやらお正月やらが、波のように押し寄せる。
それぞれの季節を確認する作業は重要だと思う。
一年を短いスパンで分割すればするほど、
効率よく物事をこなせるし、正確なニッチを持つことができるとおもう。

今冬は、ヤキイモを作り、風呂に柚を入れ、祖母の誕生日を祝い、密かにサンタが来た。大晦日は川崎大師に行った。
元旦は実家のおせち料理に舌鼓を打ち、天皇杯を見た。
「年賀状?ソレ食えるの?」と独語していた彼は、彼宛に届いていた数枚の年賀状を手に取り、破顔一笑の表情を浮かべた。(彼は一通も出していない。)

近日中に手作り凧を作って凧揚げをする予定です。



大掃除。
「誰かやってくれねーかな…」と毎分2000回ぐらい呟きながら
お風呂のタイルなどを磨く。
内田樹先生は
「家事をアウトソーシングする人間をわたしは信用しない」的なことを豪語している。
なので、渋々磨く。

08年、二日目。
早々と作曲したい魂がアクティブになる。でも眠いので、半日は猫とごろごろする。タキタニ(♀猫)と七並べとか、福笑いとかする。
08年、五日目。
お祭り気分もやや収まってきたので、いっそう仕事に励む。
古橋悌二メモランダムを読んで、幸せが喚起してモチベーションとなる。
新作レコードの曲が3曲まで終わる。しかし眠い。


今年は勉強がしたい。

音楽をやっていると、自然に世界の物事を音楽世界のフィールドに引っ張り込んで、無理矢理解釈しようとしがちである。音楽を糸口にして、他の分野について思考するというのは、それはそれでおもしろいし、重要なアプローチではあるようなきがするのだけれど、同じ世界にコミットし続けるのは大変危険な状態であろうと思う。すでに知っている世界を主題的に勘案するのは、楽ではあるけれど、心躍るようなことではない。
音楽みたいな嗜好性の強い曖昧なことをやっていると、是非がうやむやになり、旧態依然の日々が続く。あぶない。

すぐれた書物は私たちを見知らぬ風景のなかに連れ出す。
その風景があまりに強烈なので、私たちはもう自分の住み慣れた世界に以前のようにしっくりなじむことができない。そうやって、さらに見知らぬ世界に分け入るのだけれど、必ず「あ、ここから先は行けない」という点にたどりつく。そして、ふたたび「もとの世界」に戻ってきたとき、私たちは見慣れたはずの世界がそれまでとは別の光で輝いているのを知るのである。
若い人に必要なのは、この終わりなき自己解体と自己再生であると私は思う。愛したものを憎むようになり、いちどは憎んだものを再び受け容れる、というしかたで、私たちは少しずつ成長してゆく。

(内田樹の研究室 : Column / Simple man simple dream)

さて、どこかに行こう。



友人の御成婚が相次いだ。(相次ぐ。)
「なぜ、みんな結婚するんだ?考えられん!」などと
古い友人と電話で、ややパセティックに嘆く。
現状の1割程度、自分への興味が薄れたら、結婚などと考えてもいいかもしれない。今はまだ、自意識と無知がべったりと体中に張り付いているので無理だ。


「タキタニ、おまえも映画観るか?」
「にゃー」
「そうか、じゃあ、一緒に観よう」
彼女との、この腹話術的コミュニケーションが、ぼくの生活において唯一、会話能力を涵養する機会である。
人は往々にして、野菜や、車や、バットや、灰皿や、小銭やらとカウンセリングを行う。そうやって、ぼくらは暮らしにリズムと色彩を持たせる。
などと書いていると、「さみしーにゃー、あんた。」と言われた。