11月の備忘録


来年2月リリースの、CD「Nbular for thirteen」の音作りに励む。そして励む。
レコードレーベルの方の辛抱強く真摯な力添えを受けつつ、もう少しで終わります。
タイトルは、「アーニワニワ(マオリ語で虹)」を諦めて、「Nebular for thirteen(13歳の星雲)」に決定。
ソシュールみたいだけど、いろんな含意があって良い気もする。
13歳というのがいい。
ピアノボーカルver試聴させてあげます。好意的な感想だけ受け付けます。
(でも辛らつな批判のほうがわくわくします。)
http://www.myspace.com/ngatari (*しじまのふ)



リリースに伴い、アー写撮影。
明治大学校内で撮影。なぜだ。
ボツ写真載せておきます。おい顎でてんぞJessica


ローザスを観に行く。
そう、こういうことがやりたいんだよおれは。
と、毎度思う。
ローザスの音楽セレクトに言及する評論家は多い。
今回は、バッハ、ヴェールン、シェーンベルクをシーケンシャルに弾いて、ソロ、ユニゾン、群舞
様々な形態で踊った。照明の妙も素晴らしい。
・・・レビューになってる。やめよう。

とにかくエキサイティングでした。
やはり、身体表現はこうでなくては。
コンテといえど、新しいんだ。いつも。誰がなんと言おうと。
http://www.saf.or.jp/arthall/event/event_detail/2009/d1127_movie1.html


なぜ、おそるおそるではあるけれど、
三和音から、あるいは属七の和音から、三度を抜くのか。
たぶん、視聴者の想像力を喚起させる余地を残すことは必要だろう。
ようするに、オーディエンスの頭のなかで、「ミを鳴らす」あるいは「ミ♭を鳴らす」のである。
そのミかミ♭かのような振幅が、オーディエンスをそこに留まらせる。どこにも連れていかない。

ぼくはどのような状況においても、どちらか一方に与するのが嫌いだ。
感情的にも、音楽的にも、ニュートラルで居続けることのみが、ぼくの目指すところである。
(「ガタリ」の由来はそういうことである。)
いつでもぼくらは選択しないという選択肢を常に勘定に入れるべきだ。虹は色を選んではいない。
それを無色と呼ぶのは短慮軽率というもんである。プリミティブと言ってもいい。
(先日もライブで「色がない」と言われたけど、それは「何がやりたいかわかんね」ということをおっしゃられたのだと思われる。これはわかります。)
しかし、音楽にもともと色なんてものはない。聴いた人が、個人の身体的体験のもと、同調した場所に色彩が宿るだけである。
だから「色のない音楽」なんてあるわけがない。「色の淡い音楽」があるだけだ。

なんて話はどうでもよくて、ようするに、聴く人をどこにも連れていかないけれど、
生理的に気持ちの良い、質の良いポップを作りたいわけです。
といいつつ、「ここは、5度を半音上げよう。ゲラゲラ」とか言ってんだけどさ。



そういえば、mixiトップにある、「同級生を探せ」というやつ。
なんで?思い出を掘り起こして、ノスタルジーに浸るの?
もちろん旧友との再会は楽しいし、学生の頃の友人たちは素敵だ。
でも、友達と疎遠になったなら疎遠になった理由があるはず。
思い出を糧に生きるぐらいなら死んだほうがマシだ。(はて、どこかで聞いたような。)
といいつつ、ぼくもmixiで旧友に見つけられて、喜んだくちだけどさ。
しかし、こういうシステムを素直に言祝ぐことができないおれ。なんとなく。


「勉強できなくても優しい子供に育ってくれればいい」とげーのーじんの方が言っていた。
勉強の定義がよくわからないけれど、
もし勉強が知性への飽くなき希求であるとしたら
この方針はダメなんじゃないか。
優しさとは知性の持つ究極の、いや知性でしか成就されないものだからだ。
ヒトの痛みを知るとか、ヒトの気持ちを斟酌するとか、そういう「人間的な」振る舞いは、バカにはできない。
と、昨日、牛角で飯食いながら、隣席の親子見て思った。


最後に、女の子について。

よく、女の子は、論理的じゃないとか、むりやりカテゴライズするけれど、
そんなことねーと思うのよ。俺は。
彼女たちはロジックを見てみぬフリをしているだけだ。
女性性というものは存在しない、とボーヴォ・ワールは言っている。

「体重六十キロ以上の人間に固有の心性」などというものは存在しない。
同じように、男性、女性それぞれに固有の心性などというものも存在するはずがない。というのは、性差とは、分子レヴェルにまで還元して見れば、性ホルモンの分泌量の多寡という
(体重差と同じように)生物のアナログな連続に刻まれた恣意的な境界にすぎないからである。
性的差異などというものは実体として存在しない。
一方の性に固有の気質や思考などというものは存在しない。世に性的特性とされるものはすべて性差別が実効的に機能したあと、事後的に、状況によって賦与されたものにすぎない。」

ようするに、
論理的な話を感情論で一蹴するような女の子(いっぱいいるけど)は、バカなんじゃないか?
実際、バカでもぜんぜんかまわないんだけどさ。


乱筆御免、そろそろ仕事します。
P.S. 下の記事の注釈の、(熱心な嵐ファン)ってのすごいよね。すごいよ。だれだよ。

『スマスマ』ついに終了! ついにフジもSMAPを捨て嵐へ
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1036867&media_id=61

他人のつくるもの

こそこそ曲を作っている。
ああ、なんて良い曲なんだ、と、ついに涙ぐむ。
メンバーにも、友人にも、「自分の曲で泣けるなんて、なんて幸せなやつだ、いやアホだ」と至極まっとうな意見を頂戴している。


なぜ、自分の曲の美しさに打ち震え、幸せのうちに感動を喚起させることができるのか。
ぼくがアホだからではない。(それも主な理由だが)
それはたぶん、ぼくが作らされているからだ。いったいだれに。
もちろん、自分だ。正確には、他人という自分だ。
他人という自分の作ったものに、自分という他人が感激しているのである。


それは訓練によってフィジカルに自然と身体が動くとか、
マリファナのように想像力が暴走するとか、そういう抽象的なことではない。
書いたときの自分と、それを聴く自分は別人で、ふたりで嬉々として手前味噌を並べあっているのである。
ゆえに、あとから自分の作った曲の構造は説明できないし、創作過程を思い出すこともない。
あるいは、自分で聴いて感極まって泣いたりするのである。


「どうしてただ一人の語り手では、ただ一つの言葉では、決して中間的なものを名指すことができないのだろう。それを名指すには二人が必要なのだろうか?」
「そうだ。私たちは二人いなければならない」
「なぜ二人なのだろう?どうして同じ一つのことを言うためには二人の人間が必要なのだろう?」
「同じ一つのことを言う人間はつねに他者だからだ」
モーリス・ブランショ『終わりなき対話』)

譜面のうえで、調律された"狭んめぇー"幾何学的な組織に囲われて、
音楽的修辞法を鍛え上げることにのみ熱心なわたしを、聴いているわたしは知らない。
このポップで直感的な判断を下す"聴くわたし"がいなかったら、ぼくらの曲たちは、ずいぶんつまらん曲に仕上がるとおもう。
がちがちの、"狭んめぇー"数理的秩序のなかで一人相撲をしているようなものに。
(じゅうぶんつまらんというような心温まるアドバイスは結構です。)


あ、いま気付いた。
ぼくがぼくの曲を弾けない理由が。
他人の作ったものをすらすら弾けるわけがない。すっきりした理路である。
いやまて、他人の曲だって弾けるだろフツー。
しかし、自分の作った曲を必死で猛練習している姿は、なんだか厭世的である。



昨日、10/24のライブ
非常にたのしかった。


国吉亜耶子and西川真吾Duoは、あいかわらずシンクロしているように息が合っていたし、
(西川さんのドラムは、ほんとうに素敵だ。)
天国の宮国さんがあれだけシアトリカルに歌って、かつ、かっちり聴けるのは、オケの素晴らしい技量に尽きるのだろう。楽しい。
ドラムレスでもじゅうぶんオーケストラ的で素敵だと思ったけれど
そういうものでもないのかもしれない。
彼らが曲中に、ぼくらの「スプルースの化石」をちらっと演奏してくれた。
前途した理由で、号泣。
なんていい曲なんだ。
嘘です。ありがとうございます。嬉しかった。

夜だから


政権があっちこっち落ち着かず、その権威の飛沫が灰塵となって降り注ぎ、目が霞んだ女子高生がトチ狂って、1Q84買いまくり、売れ行きに憤慨した某宗教団体が、腹いせに、岡田監督を買収し、広告代理店と、山田電気を経由して、やる気のないファンタジスタがフィールドに駆り出された。その戦術に違和感を覚えたちびっ子たちが、集団で高速無料化に遺憾の意を表明している。この国は平和です。
この振幅が日本のいいところ。



9/11 いらしてくれた方、ありがとうございました。
バーカウンターの上に仁王立ちした出演者が怒声をあげながら星条旗を食い破る様は、
非常にファナティックで、またシティー的であった。

嘘です。

いくつかのラウンジがあって、ゆったりと配されたソファーがあり、ブースがあってステージがある。欧州の贅沢なクラブみたいで、とっても居心地の良いスペース。女の子はキュートで、音楽はクールだった。
ぼくらのパフォーマンスは、決して満足の行くものではなかったけれど、ステージを終えてがっくりと肩を落とす我らがボーカリストは、「声帯のドアが開かなかった。夜だから。」と言って、マリブオレンジをごくごく飲んだ。
色気のある言い訳である。

嘘です。(居心地の良さはホントです。)

スタッフのみなさん、誘ってくださったnikさん、出演者の方々、お客さんたち
ハッピー、ありがとうございました。



明け方にリキッドを出て、キーボードを返却し、明け方の曇り空を眺めつつ、(明け方の曇り空なんて、カビの浮いたトマトジュースより最低だ。)埼玉に向かった。山岸さんの作った美味しい朝飯を平らげ、仮眠をとり、9/19のリハーサルをこなし、
東京に戻る。
埼玉の日高は素晴らしかった。



ヒルズ52階のMad Loungeに視察に行った。
レセプションで受け取ったパスと赤い絨毯にまず怯む。
とっても上手な歌い手さんが伸びやかに歌っていた。
雰囲気はシックだったけれど、今度は遊びに行きたいな。
さすがに夜景は美しかった!

ちなみに森美術館は、アイ・ウェイウェイという方の展示をやっていた。
あまり興味が持てない。
というか、森美術館、2,3年前にビル・ヴィオラ展を観にいったとき
隣接した展示場で福山雅治のひどい写真展を大々的にプロモーションしていたのをみて
以来、疎遠である。BUNKAMURAも森美術館もひどいありさまだ。
あと国立新美術館も悲しいぐらい酷い。

ロベールクートラス展とゴーギャン展は行っておきたい。
ゴーギャン、23日までだ。行けるかな。


ecritから
エクリ・リレー・コラムが始まりました。
ecrit relay column

ブログを読む

おもしろいブログを読みたい。
一日一投稿。いや隔日でもいい。
ぼくが購読している人のブログは、mixiを除くと、(身内のブログも含めて)10人足らずである。
彼らは文章が上手であるうえに、たぶん恐ろしく書くのが速いので、不定期ではあるが、まぁまぁ頻繁に更新している。けれど、ぼくは、毎日でも、卓説を拝読したいのです。ひざを打ったり、深く頷いたりしたいのです。


「だったら本を読め」とおっしゃるかもしれない。本もそりゃ読むよ、読むけども、
本てさ、身構えるじゃないか。映画と同じで。
装丁を眺めて、タイトルを黙認し、うっかり手触りを感じて、べっとりした帯を剥ぎ取り、発行年月を渋々確認して、「はじめに」を思案気に読み通す。「はじめに」がないなら「序論」がある。
それもないものは、ジャンプ台のない跳び箱と同じで、心配りに欠けているので、お断りである。
ここまでの行程でフツウの人間はうんざりしてしまう。
それから、どぎまぎしつつページをめくると、「目次」という障壁が立ちはだかっている。
こいつを突破するのは大変だ。登る前から、山の高さを思い知らされるようなものだから。
「序論 ○○ 5 第二章 △△ 126」なんてものを見たら、がっくり戦意喪失、ビギナーにいきなり121頁は、酷である。


と、いうかんじで『差異と反復』を前に怯んでいたら、このようなブログ?を見つけました。
まぁ、よみやすい。(とは言えないけど。どこのだれがドゥルーズ関連のテキストをすらすら読めるだろう。)


「現実を変えようとする熱情も、熱情を冷ややかに見つめる分析も、ともに現実を排除する。思考とはその循環である。」
アツイ!
http://www3.ocn.ne.jp/~camp/deleuze.html

この「海辺のカフカ」書評もなかなかいい。
http://www3.ocn.ne.jp/~camp/umibe.html

だれかおもしろいブログみつけたら教えてください。
http://www.radiodays.jp/blog/hirakawa/?p=392
http://blog.livedoor.jp/toshihirock_n_roll/archives/2009-06.html#20090616
このふたりはおもしろいです。




「ベランダに洗濯物を干すと、景観を損ねる恐れがありますので、控えてください」
というような記事を見たけれど、
これは酷いんじゃないかと思う。

洗濯物を干すという行為は、人類史とほとんど時を同じくして始まった家事であるし(たぶん)
だいたい、そういう批判をする人間は、家事労働なんて、ついぞしたことのない人間なんだろう。
ぱたぱたと風に揺れる色とりどりの洗濯物は、ホテルの外壁に掲揚されてる国旗なんかより
シンボリックで、いろんな示唆に満ちているよ。



日々のほとんどの時間をアルバム楽曲製作に勤しんでいる。
9,10月はライブが立て続けにあって、
そして、わざとらしく過飾で無益な結婚式が立て込んでいる。
作らねばならぬウェブもたまっているし・・・。
(これらは、うむ、後回し。)
その合間を縫って、本を読んで、マンガを眺め、掃除をして、
洗濯物を畳み、美術館に行き、料理をして、哀しい植物に水を注いで、かちかちに乾いた靴紐をしっかり結んでジョギングする。
あと、テレビのキュートなニュースに律儀に文句つける。


「運動部のマネージャーをやるような女は意味が分からなくて嫌いなんだ」
リリー・フランキー

慧眼である。

ぼくも「意味がわからなくて嫌いなんだ」的なものを挙げてから寝ます。

一、駅の自動改札に切符を入れようとしたら、向こうから足早に駆け寄って、間一髪、切符を(反対側から)挿入し、(ぼくの目の前でピンポーンと悲劇的な警告音が鳴る)勝ち誇ったように改札口を塞ぎやがる醜い女は、意味が分らなくて嫌いなんだ。

一、ルービックキューブの得意な女は、意味がわからなくて嫌いなんだ。

客観写生


コーラは、飲んだときの満足感よりも、
飲む前の、パッケージによる視覚的な爽快感のほうが何故か気持ちが良い。
意味わかる?わかってくれ。


一生懸命、歌詞を書いている。
今度の歌詞は、「リアリティー」について書く。
リアリティーとは、要するに、主観や自明である情報を
世界から、出来る限り排除したあとに残る、残り香のような陽光のことです。
よくわからない、よくわからないな。
よくわからないだろうから、深澤直人さんの言葉を引用します。
いや、ただ、このテキストから読んでから、ずっとそのことが
気になっているだけなんです。

縁と肌目
 世の中には縁と肌目、テクスチャとエッジしかない。ある均質な情報はテクスチャと、その変化によるエッジで認知されている。しかし認知をとめてしまえば、結局世の中はテクスチャの切り替えでしかない。これがリアリティーだと思う。たとえば海で水平線を見たとき、その向こうが滝のように落ちているとは考えないだろう。それは、地球は丸いと教えられ、向こうが滝だなどという「バカな」情報を切り捨ててしまっているからである。この世界が自分にとってどう見えているのかということを、自分の目で、自分の肌で感じようとしていないのだ。事実、地球が丸いとわからなかった時代には、自分の生活環境の中から割り出した情報によって、向こう側は滝だと考えられていた。それがいかにするどいリアリティーであろうか。
 人々が共に吸い込んでいる共有の情報こそが、デザインをする上でとても価値の高いものなのである。

客観写生
 高浜虚子が言ったように、俳句とはその人の心情をあからさまに歌うものではない。主観ではなく、客観でそこにある現象を詠むのである。リアリティーを持って、ダイレクトに詠むことで、相手を感動させることができるのだ。心情を込めてはいけないわけではないが、あまりに主観が入りすぎては人には受け入れられないだろう。客観写生、常に客観的に自分を俯瞰してみることが重要なのだ。
 マチスも同じことを考えていたのではないだろうか。彼は絵を描く時、とても長い筆を持っている。普通の人は、近付いたり離れたり、主観と客観を行き来している。しかしマチスは、常に客観だけで描いている。自分の小手先のコントロールが出ないから線がきれいなのである。
 きれいな線、きれいな色、きれいな形などというものは存在しない。そのものがきれいなのではなく、ただ状況がそれをきれいにしているというだけのことだ。意識的であることは、もっとも美から遠いといえるだろう。
―デザイン経営論 講義ノート 深澤直人
http://www.musabi.ac.jp/d-info/y04/keieiron/5-2.html



読了リスト


春、バーニーズで」は、おもったより全然おもしろかった。
」も記憶していたよりもぜんっぜんおもしろくて、
村上春樹『1Q84』をどう読むか」は非常につまらなかった。
3人ぐらい読んで、「つまらなかった」と結論を下してしまうほど、つまらない。
あと32人分読んだら、感想など書きます。書かないかも。



本田圭佑が開幕からきれまくりです。
モンスターだ。コイツ。

PSV     - VVV-Venlo 3-3 (1ゴール1アシスト)
VVV Venlo - ADO Den Haag 2-2 (2ゴール)
FC Utrecht - VVV-Venlo 2-2 (1ゴール1アシスト)


PSV-VVV (09/08/02)
http://www.youtube.com/watch?v=PP0XVVizZgo&feature=related
VVV-ADO (09/08/09)
http://www.youtube.com/watch?v=NVTqs0u8sdA&feature=related
Utrecht-VVV-Venlo (09/8/16)
http://www.youtube.com/watch?v=FZGeJqlbVC0&feature=related

ブタフル


第13回Van Cliburn国際ピアノコンクールで、
全盲のピアニスト、辻井伸行さんが優勝した。

記者会見で、インタビュアーが、
「もし一日だけ眼が見えるようになったら何が見たいですか」
と辻井さんに質問をしていた。
なんて愚かなんだろうこのインタビュアーは。
あまりにグロテスクな風景だったので、テレビを粉々に破壊する。


豚インフルエンザに感染しました、
と触れ回ってるのに、世間はこの話題、もう飽きたみたいだ。
結局、この手のトピックの帰趨は、「みんなが、ゆるやかに飽きていって、いつのまにか、ぷっつり消えた(まだ存在するのに)」である。
小学生が「ブタフル」と略していた。
この言語感覚すごいよね。なんだよブタフルって。
でも、しょせんブタフルだったな。


最近、結婚式の司会者がおもしろい。
「今日の新郎新婦は美男美女で、充分アップにも耐えうるお顔をしていらっしゃるので、みなさん、どうぞ近くに寄ってお写真をお撮りください!」おもしろい。
ちなみに今日の新婦は44歳、新郎が32歳であった。


スーパーのレジに並んでいると、ぼくの前に立ちはだかっていたおばさんが、「あなたふたつだけなの?じゃあ先に済ませなさい」と
順番を譲ってくれた。
イタリアのスーパーでは真逆だった。
「ちょっと、あたし二つだけなんだから、先いいでしょ?どいて!」

小津の映画のあの、やたら早口のリアリティーを欠いた台詞まわしは、案外、リアルなのかもしれないと太陽の尾形イッセーを見て思いました。桃井かおりも素晴らしかった。
1Q84については、ネット上にくだらない書評がごろごろ転がってるので感想書くのやめます。


スヤマカフェ vol.2
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今回はコントラバス奏者の高杉くんが参加。
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疾走するグリーンカレー


通学路を家まで疾走する小学生をよく見るんだけど、
なんで小学校の頃って、帰り道にトイレ行きたくなるんだろう?
そして、かなり極限状態だった。いつも。


晴れの日と雨の日が交互に続く。シーケンシャルに、加速しながら。
年取るとともに、良い天気の日が貴重に思えてくる。
距離とか、遺品とか、そういう言葉が好きだ。



村田志穂子さんのオイリュトミーの発表会を観にいったり、オワリカラのイベントに行ったりする。
オワリカラ、非常に良かった。かっこういい。
あ、今思い出した、ロスコいってねぇ。

行った展示など



スヤマカフェ vol.1
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うつみかやさんが、ハッピーで、素敵な歌を披露。
Jessicaはミュージカルのカバーからセレクトして雄大に歌いあげ、
山岸直人さんの鋭利でカラフルな即興演奏が四方山話をすりぬける。
ゲスト、礼恩が美声を披露しつつ、あれよと深更に至る。
夜中に隣人のみはる氏がグリーンカレーを振舞う。ひどく美味い。
おかげで、ぼくが作った豚汁が影を潜める。
次回は、6月27日です。
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