石川丘子

石川丘子さんの写真は素敵だ。
彼女の撮る山々や湖の写真は色気に満ちている。
彼女には艶やかな山や、蠱惑的な湖を見つけだす能力が備わっているのだろうか。
ぼくはそうではないと思う。きっと山の本来持っている色気を彼女だけが感じ、すくい取り出しているのだろう。
丁度、夏目漱石夢十夜」の第六夜で、木のなかに埋まっている仁王を掘り出すように。
そう思ったのは、彼女の版画作品を見てからだ。余分な力の篭っていない涼やかな版画群は、距離が美しくて清い。
無造作に鑿と槌を振るう明治の運慶と、流行から遠く離れたところで淡々と作品を作る彼女を同じ文脈で語るのは暴挙だろうか。孤高、と言ったら本人は怒るだろうけど。
http://www.qco-taco.com/

未知の対話とカノン

多事多端ゆえに、作曲の時間が一日四時間しか取れない。でも四時間あれば一つのセクションは書ける。三時間では書けない。三時間ぐらいあれば、楽想ひとつぐらいひらめく気もするけれど、睡眠と同じで深く潜るためにはウォーミングアップとクールダウンが前後に必要なので、帰宅してドアの鍵をがちゃがちゃ開けたり、鉛筆をこりこり削ったり、鼻かんだり、それらの準備体操の時間を積み上げていくと、楽譜と向き合うのはやはり正味三時間となる。短い。集中力の涵養にはもってこいかもしれないけれど。

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さいきん、Ametsub氏のアルバムばかり聴いている。二年前ぐらいに初めて試聴したのだけれど、聴いた瞬間、「新しい」と思った。「新しい音楽」の「新しさ」を言葉で説明するのはすごく難しい。感じたのは技術的なことというより、その音楽へのアプローチの仕方だからだ。もちろん音は鋭利で、清く、暴力的なまでにリリースを切ったピアノの音は、クレーやミロのように絵画的で清潔感があり、その新鮮さに感動すらするのだけれど、その音楽自体が新しい方法で作られたわけではないはずだ。それでもAmetsub氏の音楽は、新しい言語で語られていて、その音楽の時間のなかでは豊かな対話が聴こえる。

前衛芸術とは新しい方法で作られた芸術のことではない。
新しい語法を希求する姿は勇ましいかもしれない。でもパセティックだ。
前衛的な音楽家というのは、「聴きなれない旋律」や、「真新しい音」や、「奇矯に聴こえる音像」を追い求めるひとではない。
もし初めて聴いた音が前衛的だというなら、それらは時代の推移とともに、あるいは人間の成長とともに当然その前衛性を失うからだ。前衛的というのは、その語義からもわかるとおり、対になるもの(あるいはひと、あるいは主義)があってはじめて有意となる。
音楽の場合、対になるものは、もちろん聴き手だ。
自分にしか理解できない新しい語法で話す人間は、当然その新しさゆえに、他人とのコミュニケーションを断念するしかないけれど、彼の音楽には聴き手を拒絶するような音は何ひとつない。
結局、聴き手を置き去りにするような音はぜんぜん新しくないのだ。ほんとうに前衛的な音楽は、誰をも置き去りにしないし、誰かに上書きされることもないのだとぼくは思う。それは常に、既知と未知の狭間にあって、だからこそ他者との豊かな対話の可能性を秘めている。

というようなことを、明日のototo詩トークショーで話そうと思っていたけれど、ここで書いてしまったので、別のことを話します。
楽しいこと話そう。希望とか、善意とかについて話そう。
http://ototoshi.seesaa.net/

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カノンというのは、演奏者たちが正確に譜面を辿る一方、聴衆は主題に熱心に耳を澄ますのだけど、複数の声部を追っているうちに彼らは旋律を見失い、あるいは追従される。その混濁した音列の束のなか、突然空から誰も弾いていない音楽が、聴こえるはずのない旋律が降ってくる、そのようなカノンにしか、ポリフォニー的価値はないと思うよ。
自戒の念をこめてツイートし、ただいま弦のアレンジを書いています。

ゆるゆる裁判のススメ


DE LA FANTASIA 2010」を終えて、イノウエタイシンさんのおうちへ。
タイシン家の書架がおもしろくて、くるくる見回してしまう。ドゥルーズ=ガタリまである。ワインを頂きつつ、猥談を交えつつ、深更に至る。
音楽をたくさん聴かせてもらったけれど、音をテクスチャーとして捉える人たちの仕事はとても刺激的だ。ぼく自身は、音を注意深く編んで音楽造形を図る化石的に古い人間だから、彼のように音の手触りを感じ取って、そこから何かを想起する人たちの感覚には深い敬意を持ってしまう。
彼らと共同作業をすることによって、からからに建てられた古い建物に、色とりどりの光が当たって、豊かな陰影が生まれたらいいな。


光と言えば、DE LA FANTASIAのトップバッターを飾った高木正勝さんのステージは素晴らしかった。映像作品を背景にピアノを弾くだけのステージなのだけど、凡百のムード音楽とは明らかに一線を画すパフォーマンス。最近の映像作家の作品には強い忌避感を持ってしまうのだけど、彼の映像はとても気に入っている。
なによりピアノを肯定も否定もしていないような演奏が素晴らしくて、それこそはたを織るような演奏、世界は本当にテクスチャとエッジのみで出来ているんだと思わせるようなリアリティを肌身で感じました。こういうのこそ"オリジナル"と呼ぶのだと思う。

高木正勝さんにクローズアップしてしまったけど、DE LA FANTASIA 2010の面々は本当に素晴らしかったです。ありがとう!



また政治的なこと書いてやがると思われそうなのだけど、
こんにゃくゼリー訴訟」への言及(もっぱら「企業側に非なし、両親の不注意」的意見)があまりに多くて、いらいらしてきたので、ちょっとだけ書かせておくれ。

こんにゃくゼリー訴訟」において問題なのは、「とんだお門違い」の訴訟を起こした人間の判断力ではない。そうではなくて「抱え込んだトラブルをほぼ間違いなく解決してくれる機関がある」と彼らに盲信させた日本の司法の在り方だ。
というのは、日本では訴訟を起こせば、勝敗は別にしてほぼ間違いなく判決が下る。そして正義の名のもとに刑罰が執行される。自分にとっての「悪」を罰する機会が得られるならば、とりわけそれが近親者の命に関わったものであるなら、だれだって、その「正義の裁断」にすがりたくなるだろうし、そういう立場にある人間の「厳罰を希求する感情」を咎めることは誰にもできない。
「危険なこんにゃくゼリー」を作った人たちも悪くないし、両親の不注意と断罪してしまうのはあまりにパセティックだ。

こういう悪の居所がよくわからない問題に直面したときに、もやもやしたまま判断を下す人たちがいるけれど彼らには「両者とも悪ではなくて、不運だった。」と欠性的に結論付ける習慣がない。
それがたまらなく嫌だ。「この訴訟はただの八つ当たり」だと断罪する人間の思考は「悪の居所はこんにゃくゼリー」だと断罪した遺族の思考と同型だ。

「悪は程度の差を抜きにして、必ず罰せられる」という信憑は根強い。
多くの場合悪は許容されるものだし、少なくない数の悪が罰せられる。そういうものなんじゃないか。誰かを必ず罰するとか、どちらかの正義に与する必要なんてないんじゃないか。

悪にだって程度はある。些細な不正から自分の身を守ったり、ちいさなトラブルを事前に回避できるのは「悪の程度」を注意深く測ることのできる人間だけだ。
そういう人たちは、簡単に人を断罪したりしない、と思うよ。



こんなこと書いていたら、
「裁判員、少年に死刑判決」の記事が。
「こんなことしたやつ殺しちゃえよ」という能天気な市民感情が色濃く反映するように、「厳罰化」を希求したがための結果が裁判員制度なのだろうが、裁判官に求められる職業的キャパシティを甘くみすぎなんじゃないか。
裁判員制度導入を決定した官僚の方々は、ふつうの理性を持った、専門的訓練を受けていない、ふつうの人たちが、人の生き死にを決断する際に負う精神的負荷を想像したことがあるのか。
「一生悩む」と言った裁判員の方の精神的苦痛は、裁判における守秘義務ゆえに、誰にも打ち明けることができない。
「死刑を求刑した裁判員もまた人殺し!」と喚いている連中と同様に、裁判員制度を主謀した人間もまた想像力が足りなかったと言わざるを得ない、と思う。
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20101126k0000m040091000c.html



年の瀬
ぼくは季節もののイベントが大好きなので、年末年始のお祭りは多いの堪能させて頂く。
クリスマスも好きだし、お正月も好きだし、人日の七草粥も、Thanksgiving Dayのターキも好きだ。何について言祝ぐ、あるいは感謝する人なのかよくわからないので蒙昧な信仰ではあるけれどそれでもいいじゃない。
宗教的思考に繋縛されることなく、各国の伝統的祝日を楽しめる、ゆるゆるフレキシブルさが日本のいいところ。

f:id:monobook:20110112100832j:image

距離

音楽とエロスは目耳を塞いでも情報が入ってくるけれど、本当に聴きたい音や、本当に欲しいエロスとの距離はなかなか縮まらない。しかし、この満たされなさを経由することでしか、生への(あるいは死への)原動力は生まれない。それを知っているからこそ僕らは女の子にフラれ続け、レコードを買い続けるのだ。

https://twitter.com/#!/monobook/statuses/1194876888686592

10,11月の備忘録

おはよう。

柴田元幸と9人の作家たち」と「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」をシーケンシャルに読みつつ、「悪人」読了。「悪人」はブレイクの渦中にある本なので、電車のなかで読むのは少し照れたけれど、わりにおもしろかった。
前半はうんざりするほど退屈で、文体もぎこちないし、たらたらと半ば無理矢理読みすすめ、後半の転がり落ちるような速度と、登場人物への作者の慈しみに少し感動した。吉田修一は、とても人間的な作家だと思う。

絲山秋子「海の仙人」も続けて読む。モチーフはカラフルなのだけど、風通しが良くて、何よりひどく静かな物語。まだ途中だけど。
静かな本を読むと、リズミカルな文章が読みたくなるので、町田康を探しに図書館に行くも、ぜんぜん置いてなくて結局バルト「テクストの快楽」と、CDを数枚借りて、ペタペタ帰宅。
気まぐれに借りたバルトだったけれど、まるで図ったように内田先生がブログで「エクリチュール」について書いている。おお!
平易な言葉でとてもわかりやすい解説。しめくくりがとても良い。まっすぐ垂直で、清潔だ。
http://blog.tatsuru.com/

こういうプチ奇遇みたいな出来事がブログを書く動機になって、こうして久し振りのブログを書いている。べつに月間読書リストを書き出したかったわけではなくて、凪のような日々を送っているので、特筆すべきトピックがないだけです。


先日ユーロスペースにふらりと立ち寄って、上映されていた映画「ヘヴンズ・ストーリー」のクレジットを見ると、なんと主題歌があだちくんのプロデュースした歌手、tenkoさんではないか。おお!でも四時間半の映画を見る気にはなれず、その日もすごすご帰宅。


CL、予選リーグ「ミラン×レアル」が凄かった・・。


さて、
11月のライブ日程がほぼ全部fixしました。

まず、16,17日は奇人ユニット、「天国」との2DAYSライブです。
ピアニスト、本間太朗氏(http://twitter.com/tarowitz)とJessicaの共演もアリ。
自分の曲をきちんと演奏してくれる人がいるというのは、作曲家冥利に尽きます。
とても幸福。
今後、自分の曲さえ弾けなくなるかもしれません・・。
そして、ぼくも天国の曲を弾いたりします、たぶん。密やかに。
http://bit.ly/bw0ezY


21日はDE LA FANTASIA 2010に。
恐れ多くも、細野晴臣ヴァン・ダイク・パークス、TYTYT (高橋幸宏, 宮内優里, 高野寛, 後藤知彦)、トクマルシューゴ高木正勝をはじめとする大御所の方々に混じって、こっそり参加します。
あくまでこっそりさせてください。詳細はいろんなところに書かれているのでチェックしてみてください。

http://www.cdjournal.com/main/news/van-dyke-parks/34973
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1397458&media_id=13
http://www.creativeman.co.jp/artist/2010/11dela/

尖閣問題

中国に留学している友人が、昨今、日本人だとわかって嫌な思いをしたことは一度もないと言っていた。プロパガンダか何かしらんが、尖閣問題でエキサイトしてるのは、一部のファナティックな国粋主義者リテラシーのない、知的にかなり問題を抱えている人だけだよ。

中国政府の外交は独善的かもしれない。でもどこの国でも多かれ少なかれ外交というのは独善的なものだし、独善的でない外交は、エゴのない恋愛と同じで論理矛盾だ。そもそも中国の外交は、親日的ではならない”事情”があるのだから、「正しいこと」を強制したら、それはもう「リベラル」ではないよ。

コレクトな立場で、「非寛容」さを批判したその瞬間、自らも「非寛容」に陥るんだよ。正しさというのはいつだって一方的なものだ。可愛い中国人の女の子とデートをする段になれば、みんな必死になって中国の美点を探り出そうとするでしょ。そう考えるだけで随分違った風景が見える。

ところでぼくはだれを批判しているのだろうか。たぶんお腹が空いているだけだ。尖閣問題に定見なんてないけれど、みんなで美味しい中華料理を食べに行ったほうがハッピーだよね。

http://twitter.com/monobook/status/26367192810

http://twitter.com/monobook/status/26367467486

http://twitter.com/monobook/status/26368089316

http://twitter.com/monobook/status/26368460203