小さな声が響く

お久し振りです。
ツイッターやってる人たちは日々顔を、いや文字を合わせてるけどさ。

最近、政局が混沌としているようですね。
テレビをまったく見ていないので、管政権も、小沢一郎のこともよくわからないし、そもそもぼくは政治には怠惰であろう、どんなイデオロギーにもなるべく与しないよう努めている(ムリだけど。)ので、現内閣がわけのわからない修辞を述べようが、官僚が上告しようが知ったことではない。でも周りの人々はわりに白熱している。
ぼくとしては、与党やら政権なんて何れだっていいんじゃねえの?と思うのだけど、そんなことを言うと激昂されそうなので、静観するのである。
でもツイッターのタイムラインが本当にうるさい。
政治的な発言を繰り返す人々は多くの場合、自分が政治的にコレクトなことを発言していると思っている。
だいたい、発言の質というよりは声のボリュームがデカすぎる。
「コレクト」なことは小さな声で語るべきだと思うのだけど、声の大きな主張が強い力を持つというファンタジーが通念であるようで、みんな金切り声で叫んでいる。

音量が大きくなるにつれて、それは「コレクト」ですらなくなってしまうというのに。

誤解されると困るのだけど、政治的に私見を述べる人々をバカにしているわけではないし、自国をよりよくすることに反発しているわけでもない。(政治的意見を持たない無知な人間がまっとうな自説を持つ人々を讃えることはあれど、バカにできるわけがないし、母国をよりよくする活動を忌避する理由なんてどこにもナイ。)
ただ、声のトーンに悪意が含まれているんだよ、声がデカいが故に。
以前、悪意の飛距離について書いた気がするけど、相手を叩きのめすための語法は、もっぱら「デカい音量」で、かつ「コレクト」な文脈において用いられる。
ほら、この文章みたいにね。



さて、お知らせです

先月リリースされた、PROGRESSIVE FOrMのコンピレーション、「various artists "Forma. 3.10"」が本日、2010.9.8より、世界22ヶ国のiTunes Music Storeにて配信スタートになりました。ぼくも一曲提供しています。チェックしてみてください。全曲とても良いです。
盤を買っていないひとは、是非iTuneにて!

various artists "Forma. 3.10" (PROGRESSIVE FOrM)
Now available on iTMS worldwide 22countries
http://itunes.apple.com/jp/album/forma-3-10/id388672362


そして、9/22は、radi presents「夜になると鮭は・・・」イベントです。
radiは素敵な友人のひとりである渡辺祐二くんがギターを務めるバンドで、共演は三度目です。出演者は、上記の「Forma」にも参加しておられる、Inoue Taishinさんと、soul tune factoryさん、それにギタリストのBancorainさんです。
soultuneさんは、これまた「Forma」の一曲目を飾っているyuanyuanの宮本さんがゲスト出演するそうです。
radiももちろん素敵だし、他の方々のパフォーマンスは未体験なのでとても楽しみです。

是非いらしてください!

http://radistrand.com/


先月から、Ngatariの新曲をはじめ、短編映像の音楽や、ダンスのための音楽などにとりかかっている。
この前、ドラムの山岸さんと、「川が上流から下流に流れることは時間軸として正しいのだけど、川の隅にできる"溜まり"のような時間の流れがあってもいいはずだよね」というようなことを話した。そういう話ではなかったかもしれないけれど、そのように心に残った。

当然音楽には時間がある。もちろんページをめくる本にもあるし、アニメーションにもある。舞台にもある。(ダンスはちょっと事情が変わると思っているのだけど、まぁこれはまた別の話。)
時間という概念は、要するに人が生まれた瞬間、強制的にスイッチが押されて、死んだと同時に閉じられる物語であり、歴史はその最小単位から派生した便宜的な記号に過ぎない。

「注がれて、しまいには溢れだす、出口はない、終わりパタン。」というような音楽を、尺のある歌曲や、映像や舞台にあてたいと思っている。個人的にはリゲティの音楽がわりとそういうイメージなのだけど、どうでしょう。