梅の香のトライアド

あけましておめでとうございます。
年末年始は京都に行ったり、鍋をつつきながらウノをしたり、南仏料理を食べ、映画を観たりして過ごしました。実家に帰っておせち料理を食べ、靴を新調して、水と塩を注文し、たくさん本を買った。
周りのひとたちが「今年の抱負」を語っているのをみて、あわてて今年の戦略をと思ったけれど、一年間の青写真というとスパンが長すぎて上手くスキームを立てられない。ぼくの場合三ヶ月くらい先の見通しが限度で、100日以降の未来と言われても想像の他みたいだ。なので春先までの計画を手短に書きます。これらは自分の備忘のためであって告知ではないのであしからず。

まず今月は、じゃぶじゃぶと新曲を書く。これはファーストプライオリティー。録音をして、編曲やサウンドクリエイションをどうするか、どんな楽器を使うか、あるいは誰に依頼するかを決める。来月以降の作品作りのマスタープランみたいなものですね。それと、そうだ。デュシャンの展示に行って、ブレッソン特集を観に行く。この二つは何が何でも成し遂げなければなるまい。それから、友人の展示に行って、新年会に行き、迎春会を開く。ピアノを練習し、カレーパーティーもする。
来月は、、、止めよう、二ヶ月分の計画を遂行できる自信がない・・・。

ともあれ、今年もみなさんに万福がありますように。


http://blog.tatsuru.com/2011/12/29_1301.php

―ある語を書き付けると、それに続く可能性のある語群が脳内に浮かぶ。
原理的には、文法的にそれに続いても破綻しないすべての語が浮かぶ(ことになっている)。(中略)
自分の思考はあたかも一直線を進行しているかのように思える。
ふりかえると、たしかに一直線に見える―


これは文章を書くときに起こる「パラダイム」についての考察だけれど、このテキストの「語」を「音符」に、「思考」を「音楽」に置き換えると、ぼくにとっての作曲行為・経験的な作曲において、もっとも枢要なことがらを言い得た文章になる。
五線譜にドの音を置き、その上に、あるいはその次の余白に何の音を配置するか、あるいは配置しないかを考え、またその次の音を紡いでゆく繰り返しにおいて12平均律の作曲は達成される。あらゆる可能性を吟味し、何を優先的に配慮するかを考え続けることこそ、作曲の本質だ。(たぶん)

―例えば、「梅の香が」と書いたあとには、「する」でも「匂う」でも「香る」でも「薫ずる」でも「聞える」でも、いろいろな語が可能性としては配列される。私たちはそのうちの一つを選ぶ。だが、「梅の香がする」を選んだ場合と、「梅の香が薫ずる」を選んだ場合では、そのあとに続く文章全体の「トーン」が変わる。「トーン」どころか「コンテンツ」まで変わる。うっかりすると文章全体の「結論」まで変わる。―


このテキスト自体もともと音楽的な表現で書かれているけれど、上記の文章の「語群」を「音名」に交換するとこうなる。

―例えば、「ドとミ」と書いたあとには、「ファ♯」でも「ソ」でも「ラ」でも「シ」でも「レ」でも、いろいろな音が可能性としては配列される。私たちはそのうちの一つを選ぶ。だが、「ドとミとソ」を選んだ場合と、「ドとミとシ」を選んだ場合では、そのあとに続く文章全体の「トーン」が変わる。「トーン」どころか「コンテンツ」まで変わる。うっかりすると文章全体の「結論」まで変わる。―

恥ずかしいからといって、単純な和音・和声進行を避けていると、力強さに欠ける、あるいは下手したら何も語らないまま終わってしまうというのは、自らへの苦言として、ある。あるいはいつも自戒している。「梅の香が」のあとに、「聞える」と続けたら、詩的ではあるけれど奇を衒った感じがしますよね。「詩的ではあるけれど、奇を衒った」音、協和しない音列をいかに「トーン」を保ったまま採用するか。これは今までの作曲でぼくが常に考えていたことだ。スカルラッティスクリャービンは、そのへんのバランス感覚が非常に優れているんだよな。
閑話休題・・・、この文章は最後に次のようにまとめられている。

―でも、実際は無数の転轍点があり、無数の分岐があり、それぞれに「私が採用しなかった推論のプロセスと、そこから導かれる結論」がある。分岐点にまで戻って、その「違うプロセスをたどって深化したアイディア」の背中を追いかけるというのは、ものを考える上でたいせつな仕事だ。―