傾向と対策

血液型による性格分析というのは「アジアのごく一部における根拠のない奇習」と批判されることが多いけれど、ぼくは結 構信じている。信仰というほどではないが、一定の「偏り」くらいはあるのではないかと密かに思っている。
ごく個人的な範疇ではあるけれど、血液型と性格の間に相関を感じることはあるし、彼(彼女)は何型だろうと思って尋ねると予想通りだった、 ということが少なからずあるからだ。
もちろんそのような経験的な「傾向」を拠り所にして「科学的に根拠がない」事象を証明できるほど、ぼくは血液について、あるいは性格の分類法についての見聞を持っていないので、ソレって占いと同じで心理誘導の類でしょと言われれば、そうかもしれないと肩をすくめるしかないのだけれど。


しかし、奇習と言われようが、ぼくはこのデタラメで信憑性のない「物差し」を簡単には手放せない。
現時点では血液型性格分析というのは科学的に非常識ということになっているけれど、ひょっとしたら今の科学技術では認識できない素粒子が、人間の人格を規定しうる物質が、血液中に存在するかもしれないではないか。または現在の人格の分類方法に致命的な誤謬がある可能性だってないとは言い切れない。
そもそも、従来のエビデンスによって基礎付けらていない尺度を「疑似科学」というふうに断罪するのは、科学の歴史を俯瞰しても決して実りのある振舞いではないだろう。
そこにささやかでも「偏り」が存在するとき、ひとは何らかの因果関係を見つけることができるし、仮にその仮説を否定するならば、「人格に影響を与える物質は血液中に存在しない」ことについての反証が不可欠だ。 けれどそのような証明がされたことをぼくは寡聞にして知らないので(おそらく「ないこと」を証明するのは難しい。)ぼくは「偏り」への否定論にも与することが出来ない。ぜんぜん。


というわけで、ぼくは初対面のひとに会えば否応なく血液型を尋ね、卑しい偏見をもって構えることにしている。特に女の子には、書架を覗くのと同じように恐る恐る血液型を聞き出しては、一喜一憂してる。ちなみにぼくは自分 自身の血液型を知らないのだけれど、みなさんがここまで読んで想像されている通り、たぶんA型です。