アシバー

Twitterに投稿するということが身体化されるにつれて、モノを書くときの力の入れ具合や筆圧(キータッチ)、身体四肢の動き、思考方法など、従来持っていた筆記における地図の広げ方に変化が顕れてきたように思う。
もちろんそれらは文字数制限に起因するのだけれど、"尺"の規制によって、語彙の選び方はもちろん、
リズムの取り方にまでその制限は遡及している。
まぁ、ぼく自身はいつも大した文章を書いているわけではないので、その変化は微々たるものだけれど、それにしたって140文字で1センテンスを書くというのは、屋内で遠投するようなもので、ある種の自律神経のこわばりみたいなものを感じる。ちょうど古式のソナタを書くときに似ていて、その感覚は禁欲的な訓練みたいだ。
それが良いのか悪いのか、今はよくわからないけれど、その変化は事後的に顕在化してくるだろう。ダロウ!



沖縄に行ってきました。オキナワ。
すんごく楽しかった。沖縄のひとびと、とくに宮国ファミリーには大変お世話になってしまいました。
破壊的なほどの歓迎をして頂いて、ちょっと申し訳ないくらいです。
(宮国ママの手料理は本当に美味しかったし、宮国パパは闊達自在であたまが良く、ぼくらを終始楽しませてくれた。)
郷の食を皮膚感覚として味わいたいのならば、土地の一般家庭にズカズカとお邪魔して、彼らと食卓をともにするのがいちばん良いのである。ありがとう!

Ngatariのライブは、Inoue Taishinさん、yuanyuanの宮本賢志さんがラップトップを持ち込み参加。鋭利なビートと色彩豊かなアンビエンスによって、ガタリに新しい息吹をもたらしてくれました。おかげで何故かピアコンを作ろうという気になってます(笑
その二つにどのような因果関係があるのかよくわからないけれど。
ライブ映像は、そのうちどこかで映像を配信するつもり。


さて、天国のパフォーマンス。今回はじめて、代表曲であるさっちゃん三部作を聴きました。すげ〜。
ぼくは彼らを形容する言葉をほとんど持っていない。
けれど、ぼくは彼らを全面的に肯定している。天国の音楽を聴いて、首を縦に振らない人なんてきっといないだろう。
それは彼らが究極だからだ。
個性的という意味ではない、
もちろんクロスオーバーしていると言いたいわけでもない。
彼らは音楽性などというネイチャーの問題を徹底的に退けて、彼らにしか表現できないことを、淡々とこなしている。
ピアノの本間くんは、これは全部コラージュだから、と嘯く。
「ここはプロコで、ここはライヒだよ。」とニヒルに笑う。
けれど、彼は知っているのだ。そのキャンパスに宮国英治の筆が走ったとき、
鮮烈なオリジナリティが生まれることを。
もっとも重要なのは、自らがサンプリング行為の囚人であることに自覚を持っていることなのだ。
そうでなければ、あのようなオリジナルの音を作り出せるわけがない。
彼らは憂鬱な時代のアーティストにあって、凡百の表現者から一線を画すユニットである。

だいたい、プロコとライヒを自在にコラージュして、その色彩を保持できる技術と表現力のあるピアニストが、日本にどれだけいるだろう。
そしてその厚みと重力に圧倒されることなく、多様な手札と淫靡な声をもって、その音楽を溶解し、再構築することのできるボーカリストなど他には思いつかない。
彼ら二人が出会ったこと自体、僥倖という他はないのだ。
天国はひとつの稀有な音楽というよりは、ひとつの出来事だと思う。

http://tengoku.in/

・・・レビューになってしまいました。しかし誰かに伝えようと筆に力を入れると、
「である。」とか、「だろう。」という語尾に自然にシフトするもんですね。

閑話休題
沖縄の珍味や、沖縄人の営み、彼らの牧歌的な息遣いについてこんこんと書きたいけれど、これはたぶんみんなが丁寧に書いてくれるのでぼくは割愛、雑多沖縄(っぽくない)動画とTAISHIN, JESSICA, KENJI, 奇人三人によるUKロックバンドの写真だけ載せます。
ライブの写真がないね。ライブしたのかな本当に、ぼくら。

f:id:monobook:20110525004355j:image:left















写真といえば、最近良い写真をたくさん見た。
(全然良くない写真も、同じくらい見た。)

(twitter)
中平卓馬の写真を見ると脱力する。
「そうだよな、これが節度だよな。」と思う。
たぶん自分の装飾過多な創作行為に対して後ろ指を指された気分になるからだ。「あれもこれも」写しだす写真への病識や、イデアとしてのモノを捉えようとする乾いた身振りは、いつも表現者の姿勢を正す。http://p.tl/fJ-X

(twitter)
昨日は仕事が終わって、ホンマタカシ展に直行した。写真あんまり良くなかったな、彼の仕事の肝要な点はその編集能力にあると思う。展示の仕方はおもしろかった。オペラシティアート二階には李禹煥らの作品も設営されていた。


石川丘子さんの写真は素敵だ。
彼女の撮る山々や湖の写真は色気に満ちている。
彼女には艶やかな山や、蠱惑的な湖を見つけだす能力が備わっているのだろうか。
ぼくはそうではないと思う。きっと山の本来持っている色気を彼女だけが感じ、すくい取り出しているのだろう。
丁度、夏目漱石夢十夜」の第六夜で、木のなかに埋まっている仁王を掘り出すように。
そう思ったのは、彼女の版画作品を見てからだ。余分な力の篭っていない涼やかな版画群は、距離が美しくて清い。
無造作に鑿と槌を振るう明治の運慶と、流行から遠く離れたところで淡々と作品を作る彼女を同じ文脈で語るのは暴挙だろうか。孤高、と言ったら本人は怒るだろうけど。
http://www.qco-taco.com/



多摩美術大学大学院グラフィックデザイン領域
イラストレーションスタディーズ修了制作+新作展2011
「NEW MOON」

橋本くんは地雷撤去のためにカンボジアに派遣されていていなかったけれど、
大きく展示された西山くんのイラストをみて、とびぬけた色彩感覚とデザイン感覚にいたく感動した。
一枚の平面を戦場にできる数少ないイラストレーターだと思う。


フェルメール展@BUNKAMURA


岡本太郎東京国立近代美術館