未知の対話とカノン

多事多端ゆえに、作曲の時間が一日四時間しか取れない。でも四時間あれば一つのセクションは書ける。三時間では書けない。三時間ぐらいあれば、楽想ひとつぐらいひらめく気もするけれど、睡眠と同じで深く潜るためにはウォーミングアップとクールダウンが前後に必要なので、帰宅してドアの鍵をがちゃがちゃ開けたり、鉛筆をこりこり削ったり、鼻かんだり、それらの準備体操の時間を積み上げていくと、楽譜と向き合うのはやはり正味三時間となる。短い。集中力の涵養にはもってこいかもしれないけれど。

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さいきん、Ametsub氏のアルバムばかり聴いている。二年前ぐらいに初めて試聴したのだけれど、聴いた瞬間、「新しい」と思った。「新しい音楽」の「新しさ」を言葉で説明するのはすごく難しい。感じたのは技術的なことというより、その音楽へのアプローチの仕方だからだ。もちろん音は鋭利で、清く、暴力的なまでにリリースを切ったピアノの音は、クレーやミロのように絵画的で清潔感があり、その新鮮さに感動すらするのだけれど、その音楽自体が新しい方法で作られたわけではないはずだ。それでもAmetsub氏の音楽は、新しい言語で語られていて、その音楽の時間のなかでは豊かな対話が聴こえる。

前衛芸術とは新しい方法で作られた芸術のことではない。
新しい語法を希求する姿は勇ましいかもしれない。でもパセティックだ。
前衛的な音楽家というのは、「聴きなれない旋律」や、「真新しい音」や、「奇矯に聴こえる音像」を追い求めるひとではない。
もし初めて聴いた音が前衛的だというなら、それらは時代の推移とともに、あるいは人間の成長とともに当然その前衛性を失うからだ。前衛的というのは、その語義からもわかるとおり、対になるもの(あるいはひと、あるいは主義)があってはじめて有意となる。
音楽の場合、対になるものは、もちろん聴き手だ。
自分にしか理解できない新しい語法で話す人間は、当然その新しさゆえに、他人とのコミュニケーションを断念するしかないけれど、彼の音楽には聴き手を拒絶するような音は何ひとつない。
結局、聴き手を置き去りにするような音はぜんぜん新しくないのだ。ほんとうに前衛的な音楽は、誰をも置き去りにしないし、誰かに上書きされることもないのだとぼくは思う。それは常に、既知と未知の狭間にあって、だからこそ他者との豊かな対話の可能性を秘めている。

というようなことを、明日のototo詩トークショーで話そうと思っていたけれど、ここで書いてしまったので、別のことを話します。
楽しいこと話そう。希望とか、善意とかについて話そう。
http://ototoshi.seesaa.net/

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カノンというのは、演奏者たちが正確に譜面を辿る一方、聴衆は主題に熱心に耳を澄ますのだけど、複数の声部を追っているうちに彼らは旋律を見失い、あるいは追従される。その混濁した音列の束のなか、突然空から誰も弾いていない音楽が、聴こえるはずのない旋律が降ってくる、そのようなカノンにしか、ポリフォニー的価値はないと思うよ。
自戒の念をこめてツイートし、ただいま弦のアレンジを書いています。