やがて

弟の知人のアメリカ人が、あまり英語が喋れない頃の日本人の友人と話しているときのほうが英語がしゃべれるようになった今よりも、面白かった。英語が達者になって話がつまらなくなったと言っていた。

これは、その日本人の知性の奥行のなさが露呈したとか、キャラクターがつまらないということではないと思う。
母国語以外の国の言語を学習するとき、人はその国の慣習やイデオロギー、価値概念込みで身につける。そうでないと、まずその言語は身につかない。身につかないというより、その言語の話者としては、話が出来ない。

日本人としての自分の考えを、頭のなかで翻訳して、それをそのまま他言語で発語しても、
意味の丈はぜんぜん変わってしまうし、まったく真意が伝わらないことだって少なくない。
愛、love、amour、amoreは同じ「愛」でも、その言語の含意はまったく違うし、意味の奥行もぜんっぜん違う。


外国語を学ぶのはとても悲しい。(これもどこかで聞いたような。)楽しいと思っている人は、ろくでもない話のみに終始していると言わざるを得ない。
たとえば、ぼくがイタリア語を話すとき、イタリア人の身振りで、イタリア人の価値観をもって、イタリア人風の視点にかえて、世界を描写するしかない。
日本人としてのイタリア語には何の意味もない。意味はあるのだろうが、少なくともイタリア人たちは、ぼくの"物差し"を、長靴の形に大きく曲げて解釈することになる。
べつにペシミスティックに思っているわけじゃなく、そういうものなのだ。

というようなことを
このあいだ欧米の友人に「憲法九条はさ…」という切り口で話し始めて深く思い知らされました。そういえば俳句の翻訳もひどいよね。
言語ネタばっかりだな、やたらと喚いているなおれ。
http://d.hatena.ne.jp/monobook/20080407/1249974704


ぜんぜんまったく展示やら映画やら、何も見ていない。悲しい。
TSUTAYAではちょこちょこ借りているけれど。パトリス・ルコントとか、伊坂幸太郎とか。
両氏ともに退屈だった。


来年2月にPROGRESSIVE FOrMより、NGATARIの新譜(Reパッケージ)をリリースします!
マスタリングは終えていないけれど、なかなか素敵なレコードになりそうだ。嬉しい。
詳細はまた後日。
ジャケットは秋山花さん。
先日は、二子玉川のIDEE SHOPに、秋山さんの展示を観に行く。
素敵だ。


うつらうつらと、三浦展を読み、何を思ったか「ぼく自身あるいは困難な存在」ジャンコクトーを読み、「人の心はどこまでわかるか」という一見ひどいタイトルの本を読む。一見ひどいけど、河合隼雄ならばいいでしょう。
でもだんだん「コミット」というワードに飽きてくる。頻出するんだよ。最近の文化人、みんな「コミット」やら「デタッチメント」って言ってない?
そうやって時代は時代に倦んでいくでしょうね。



仕分けについてかりかり怒って何か書こうとおもったけれど、べつにどうでもよくなった。
芸術やスポーツに対する助成金の削減に、みんな口を揃えて腹を立てている。
「この国を豊かにする気はあるのか」と。もっともである。
あまりに一致団結して怒り狂っているので、ぼくはどうでもよくなってしまったのである。

そして思ったよ。
少し前に日本文藝家協会が、googleの書籍検索に大して猛然と抗議をしていたけれど、そのロジックは「ネットで本の中身が読めてしまうことになれば、著作権者の収入に影響する」というもの。

なんだか似ているんだよな〜。
昨今本が売れないから著作権を死守しようとするひとたちと、先述した仕分けに抗議している人たち。もちろんぼくだって、芸術文化への予算削減には大反対であるけれど。にしても。


いま、日記のタイトルに「やがて哀しき外国語」と打とうと思って、「やがて」と打ったら、
「やがて哀しき外国語」と候補がでた・・。

google 日本語入力 すごい。