大衆はこぞって酒を飲む


天才少女とかってさ、意味あるのか?
天才ならいいけど、子供の超絶とかってさ、サーカスじゃないか?
あの、なんだっけ、某オーディション番組しかり。

とくに音楽なんて質が良ければ、年齢なんてどうでもいいわけで。
センセーショナルに取り上げられる少女たちが、成長とともに凡庸なプレイヤーに成り果てることだって不思議じゃないでしょう。旧態依然ならば。
スキルフルな12歳の子のリストより、色彩豊かな80歳の老人が弾くショパンを聴きたい。
そういうことだ。

同様に、音楽、歌手のオーディションでよくある、年齢制限、アレいつも疑問です。

天才とは、そこにある能力いかんではなくて、能力を涵養するスピードの速さが尋常ではないヒトのことを言うのだと思う。なぜって、人の一生は短いから。


最近、あるバーで、隣にいた集団(なんだか文学部のがくせーみたいな)の会話に辟易しつつ、なるほど、これがまさしくニーチェのいうところの「距離のパトス」かと思う。

「近頃の大衆文学はまったく酷いよね」と、何のタメライもなく大衆が大衆を批判している構図。でも、これこそ、ぼくらの世代の縮図だよなと、もっとうんざりする。

大衆は酷いのか。それはご高説であるし、事実かもしれない。よくわからない。
でも、ぼくらは本当は、大衆が酷いということを、心のうちでは望んでいるのである。
だって、大衆を高みからせせら笑うことが、自分たちの自尊心を死守するうえで一番合理的だから。
そうでなかったら、こんなに誇らしげに隣人を罵倒し嘲笑しないだろう。
でもべつにそれは悪いことではない。
不快感や嫌悪感を持つことなしに、成長はありえない。(とニーチェは言っている。)

ただ、メディアの助長する虚報や歪曲された真実を無批判に信じ込み、懐疑も持たず、受け入れてしまうナイーブな大衆を「頼むから、いつまでも愚鈍な大衆でいてくれ。」と切望しているのは当のぼくらであることを自覚していない「大衆」が多すぎる。
と大衆の構成員であるぼくが大書しておきます。

・・救いはないから、ひとは酒を飲む。
(昼間っから焼酎飲んでます。)