他人のつくるもの

こそこそ曲を作っている。
ああ、なんて良い曲なんだ、と、ついに涙ぐむ。
メンバーにも、友人にも、「自分の曲で泣けるなんて、なんて幸せなやつだ、いやアホだ」と至極まっとうな意見を頂戴している。


なぜ、自分の曲の美しさに打ち震え、幸せのうちに感動を喚起させることができるのか。
ぼくがアホだからではない。(それも主な理由だが)
それはたぶん、ぼくが作らされているからだ。いったいだれに。
もちろん、自分だ。正確には、他人という自分だ。
他人という自分の作ったものに、自分という他人が感激しているのである。


それは訓練によってフィジカルに自然と身体が動くとか、
マリファナのように想像力が暴走するとか、そういう抽象的なことではない。
書いたときの自分と、それを聴く自分は別人で、ふたりで嬉々として手前味噌を並べあっているのである。
ゆえに、あとから自分の作った曲の構造は説明できないし、創作過程を思い出すこともない。
あるいは、自分で聴いて感極まって泣いたりするのである。


「どうしてただ一人の語り手では、ただ一つの言葉では、決して中間的なものを名指すことができないのだろう。それを名指すには二人が必要なのだろうか?」
「そうだ。私たちは二人いなければならない」
「なぜ二人なのだろう?どうして同じ一つのことを言うためには二人の人間が必要なのだろう?」
「同じ一つのことを言う人間はつねに他者だからだ」
モーリス・ブランショ『終わりなき対話』)

譜面のうえで、調律された"狭んめぇー"幾何学的な組織に囲われて、
音楽的修辞法を鍛え上げることにのみ熱心なわたしを、聴いているわたしは知らない。
このポップで直感的な判断を下す"聴くわたし"がいなかったら、ぼくらの曲たちは、ずいぶんつまらん曲に仕上がるとおもう。
がちがちの、"狭んめぇー"数理的秩序のなかで一人相撲をしているようなものに。
(じゅうぶんつまらんというような心温まるアドバイスは結構です。)


あ、いま気付いた。
ぼくがぼくの曲を弾けない理由が。
他人の作ったものをすらすら弾けるわけがない。すっきりした理路である。
いやまて、他人の曲だって弾けるだろフツー。
しかし、自分の作った曲を必死で猛練習している姿は、なんだか厭世的である。



昨日、10/24のライブ
非常にたのしかった。


国吉亜耶子and西川真吾Duoは、あいかわらずシンクロしているように息が合っていたし、
(西川さんのドラムは、ほんとうに素敵だ。)
天国の宮国さんがあれだけシアトリカルに歌って、かつ、かっちり聴けるのは、オケの素晴らしい技量に尽きるのだろう。楽しい。
ドラムレスでもじゅうぶんオーケストラ的で素敵だと思ったけれど
そういうものでもないのかもしれない。
彼らが曲中に、ぼくらの「スプルースの化石」をちらっと演奏してくれた。
前途した理由で、号泣。
なんていい曲なんだ。
嘘です。ありがとうございます。嬉しかった。