スキップするWeb 2.0


猫の一日は大きくわけて四種類の行動から成り立っている。
ひとつひとつ写真つきで検証したいところだけど、紙数(じゃなくてバイト数)がもったいないので割愛。
箇条書きで記すことにします。わかると思います。
1.無反省に石になる
2.そよ風の研究
3.失われた記憶を探し回る
4.くしゃみに過剰反応
ところで、家猫は中間的な速さで家のなかをうろうろします。敵襲から逃げるために疾走するわけでもなく、のそのそと平原を横切るわけでもなく、彼らは、まるでスキップするように、あるいは子馬のように、かっぽかっぽと部屋のなかを闊っ、いや、散策するのです。
カワイイです。



平野啓一郎決壊」を読む。続いて、「ウェブ人間論」を読み、「ウェブ進化論」を読む。
既得権益や大企業のロジックを根本から変えてゆくオープンソースの思想や、googleによる、世界を再編成しようとする挑戦は、痛快だし、ある種のカタルシスのようなものを感じたのだけれど、何か違和感を持ってしまう。なんだろう、この素直に頷けない原因は。
ただぼくがテクノロジーに畏怖の念を感じているだけだろうか。
あるいは、権威に対抗する権力にもまた反感を抱いているのだろうか。
よくわからない。

でもたとえば、アップルストア、mp3への移行は、「音楽にテクスチャーがない」ということを私たちに突きつけた。(レコードのジャケットはテクスチャーではないし、本の装丁が持つ時間を秘めた手触りでもない。タグだなあれは。)
でも、本当に音楽に手触りはないのだろうか。ただメディアが変容しただけなのだろうか、本当に?というような問いが、アップル社の人々にはない気がする。
曖昧にしか書きようがないのだけれど、理性的には肯定するけれど、感覚的に頷けない真因は、そのような「ちょっとまって、これでいいのか?本当に?」という自制がどこにも見当たらないからかもしれない。

ぼくは著作権なんて大嫌いだし、音楽も文章もプログラムコードもオープンソースとして無条件に世界に開放して、不特定多数の人々がアクセスできればいいと思うけれど、彼の(著者の)ネット至上主義的な「自分たちが正しい」という反証もない正義の姿勢には、なんとなく同意することができない。

まぁでも、世界はWeb.2.0によって、変わりつつある、ということは確かなようですけど。(「人間の頭のなかに入りきらない記憶の容量の大部分がネットの世界にある。」―頁177 ウェブ人間論


ブクログという自分の本棚を作るサイトがある。
書架というのは、裸体を曝け出すようなものだと思うかもしれないけれど、他人の書架を見ても、その人がどういう人なのか全然わからなかった。
ブログなどで自己紹介の欄に「好きな食べ物」とか「フェイバリットミュージック」なんて項目があるけれど、いっそ、「嫌いな食べ物」とか「嫌悪する音楽」にしたほうがその人のヒトトナリを明快にするのではなかろうか。
「わたし、村上春樹好きなんですよ」と言われるよりも、「ぼく村上春樹は嫌いです。」という一言のほうが明示的な主張に見えませんか?



最近「夢は何ですか?」と尋ねられて、しばらく考えた後に答えた内容が
二年前に同じ質問をされて回答した内容と真逆であった。
という事実に感動する。
(夢は何?という質問がこんなにぼくの周囲に溢れている事実も素敵だけれど。)



今更だけれど、Travisって、Abbey RoadのHERE COMES THE SUNですよね。いいけど別に。


クッキーそれ自体よりクッキーの匂いのほうが素敵だと思う。
つくづく、そう思う。