チューリップは判ってくれない

展示と読書

石内都@目黒美術館
サリンジャー戦記村上春樹×柴田元幸
子どもは判ってくれない内田樹
ワンピース最新刊

ジャック・デリダエクリチュールと差異

一行とて意味がわからない・・・。
苦役の読書以前に、判読不能、理解は絶無、ロシア語を眺めているほうがまだ愉快である。
豆腐にかけたのが醤油ではなくソースであったときのような
諦めと無力感が喉元までせりあがってくる。
よかったらどうぞとブックカバーをつけて愛猫にあげる。


猫が神妙な顔つきで、床に鼻を擦りつけながらうろうろしている。
失われた記憶を探しているように見える。
あるいは、身体の底を覗いているダンサーのようだ。
いずれにせよ、コイツ暇そうだな。


山口薫展

とっても良かった。美しい。
何かに対して美しいと思ったり発語したとき、
自分のその感情が現在よりちょっと昔にある気がして、
また、それらは少し哀しみを帯びている気がする。
懐郷の念がそうさせるのでしょうか。よくわからない。
最近良いものを見ると、やたらとノスタルジックに見える。
でもこれって別に、懐郷の念ではないように思われる。
郷愁というのは別に遠い故郷や、過ぎ去った記憶にのみ寄り添う感情ではない。

「そこに行きたかったんだけど、実際そこに行くことができなかった」場所や
「ずっとそこにいたかったんだけど、立ち去ることを強いられた」過去や
「欲しかったんだけど、ついにそれを得ることができなかった」モノに対して
人は強く感情を残す。

ノスタルジーとは、そのような「強く欲したことのあるモノの記憶」が長い時間をかけて醸成し、自分自身の記憶として顕在化したにすぎない。
だから、行ったことのない美しい場所にこそ人は強く追懐の念を抱き、
夕方の公園をみては、里心がついて目を細め、
綺麗な女の子をみては、思慕にトリツカレて後を追いかけたくなるのです。
(5時の鐘が過ぎても親に強制帰宅を促されなかった人は、たぶん夕方の公園にノスタルジーなんか感じないであろう。)

過去の自分(あるいは他者?)が欲しがったものへの欲望は、
とても潜伏期間が長く、感染力が強い。
ノスタルジーとは、故郷を懐かしむ気持ちではなくて、故郷の(あるいは欲求の)忘却を成就させるまでの、遠い記憶に対する留保された価値である。

だからノスタルジーは未来的だ。過去からずっと続いて現在を通過して行く、先々への希望(あるいは絶望)とも思える。美しいものはいつだってノスタルジックであるが、ノスタルジーという感情は、美しくはないし、また過去形で語ることもできない。
あれ・・・。何言いたいんだか、よくわかんなくなってきましたね。
ともかく山口薫の絵は非常にまったくノスタルジックであった。




チューリップの球根を頂く。
水につけておくと、早々と根っこが水底に向かって伸びだした。
なんてイノセントなんだ。そしてなんて節度がないんだ。
でもこいつは水分が欲しくて食指を伸ばしているわけではない気がするな。
自分を「ここ」に縛り付けるために、また、自在であることを自制し続けるために
水、あるいは土の底に突進している気がする。
他の動植物と過剰なコミュニケーションをとらないようにするために。
無関心を装うために。
植物は寡黙でもないし、饒舌でもない。
ただ、世界を達観するだけだ。
彼らは天地をはっきりと示すけれど(示さないヒネたやつもいるが)
それは、世界を倦厭していった末に残る唯一の中立的な振る舞いであるように思う。
そうか、こいつは節度がないのではなくて、
節度を欠いた生物間の協定やミューチュアルにうんざりしてるだけなんだな。
いざとなったら、根っこや樹枝をばたばたさせて、大空に羽ばたくのかもしれない。
そして、我々もそれにうすうす気付いてるからこそ、
物語のなかで、繰り返し擬人化した樹を描き、植物に対して畏敬の念を抱く。
やっぱりこいつを土に埋めるのはやめようか。怖いし。
ただ、我々が植物から学ぶのは、彼等の寡欲さでも、淀みのない思考でも、あるいは清いほどの節度でもない。(やっぱりどう考えてもある種の節度はないし。)
欲望を自制しつつ、本能に忠実にいること、このやや背理的な生え方、いや生き方である。

名前はカジくんにします。