私はその日人生に


友人の所属するオーケストラの公演を観にいく。
ブラ1とモーツァルト40番。非常に、邪悪なほどに定番。
管がなんだかで、チェロバスが上手。日本のオケの縮図を見ているような、おそろしく粗末なモーツァルトだったけれど、40番の2楽章は素敵だよ、やっぱり。

ぼくはここ一ヶ月でカノン、カバレリアルスティカーナとG線上のアリアを何度消費しただろうか。結婚式場でリクエストのもっとも多いのがパッヘンベルとマスカーニなのです。ぼくはマスカーニ好きだけど、式場で聴くと、ただのBGMになる。
ということで次。


結婚式の音響オペレーター、まだ辞めずにいます。
結婚式をした人なら知っていると思うけど、関係者や企画者がこれほどナーバスになる職場ってないと思うよ。「ここは音楽で盛り上げて」と言われ主役の入場を鼓舞し、涙のシーンではピアノを静かに弾いて場を和ませる。注文された曲目と演奏リストをみて、ぼくは軽いめまいを起こし、自分の背骨が喉に刺さる。
でもそんな悲痛の嘆きは人生の祝典に相応しくないだろう。

笑顔で「Can you cereblate」などを流し、円融滑脱に式を進行させる。音楽が骨に沁みる。
「只今紹介に与りました…こういった大役に…」と始業式の校長話さながら退屈なスピーチ。新郎新婦は生涯最初(で最後)の共同作業であられるケーキに入党しているし、新婦の父は、厭世的な横顔で「新郎の友人」テーブルを睥睨している。ピカピカ光るキャンドルが、最後の晩餐を想起させ、また新婦からの「両親への手紙」には、「掃除」「洗濯」という疲弊ワードが必ず満載されている。世紀の新旧交代である。

思索とか情緒とかいう言葉とはついに無縁の宴席であるが、ぼくは彼らとともに泣き、喜びを分かち合い、両家の愚かしいパーティーに拍手を送る。(そしてたまにお祝儀もらう。コレほんとにたまにくれるんだよ。)そして、閉会とともに、ぼくは幸せの弔鐘を奏で、来臨されたサルどもをストレスフルな現実に放してやる。


ぼくらの世界では、アトサキ考えず金を湯水のごとく浪費したり、繰り返し同じ言動を行う動物のことを「サル」と呼んでいいことになっている。数々の名曲たちが、人々にもはやBGMとしてしか聴かれず、「BGM」的印象しか与えなくなったのは、バッハやモーツァルトをサルたちが執拗に好み、サルの宴会定番曲と化してしまったおかげで、これらの曲に対してセンシビリティを研ぎ澄まし、真剣に耳を傾ける人間が減ったからだとぼくは思うのだけど、サルにとってそんなこと構いやしないので、今日もまた彼らはカバレリアルスティカーナやカノンをリクエストし続ける。(ちなみにカバレリアルスティカーナは不倫の話だけど。まぁそんなことどーでもいいのであろう。)


イベントのタイトル考えるために中原中也を読む

  港の市の秋の日は、
  大人しい発狂。
  私はその日人生に、
  椅子を失くした。

いいわー。


弟の企画・ディレクションしたPOSTALCO展に行く。
http://www.book246.com/tg_f.html
http://www.suyama-d.com


いくつか映画と展示を見る。内容ほぼ忘れる。


6月ふたつ、7月ふたつ、ライブ。
http://www.ngatari.com


8月、アサヒアートスクエアでイベントをやります。楽しみにね。
詳細未定


カツオの切り身が安かったので購入。酢醤油で美味しく頂く。
きのこをバターで炒め、ほうれん草、鰹節と和える。キャベツ、アンチョビを出汁でぐつぐつ煮込み、じゃがいもをくわえて和風ポトフを作る。アスパラも焼いて塩で食べる。
食卓備忘録作ろうかな。