無言の歌

最近、外国旅行記をぺらぺら読んでいて、酷く外国に行きたくなってしまった。
(字面から想起される外国の風景は、ぼくの場合、何故かいつも決まってスーパーマーケットだ。なぜだろう。)
でも、とくにそんなエッセイを読まなくても定期的に外国逃避願望がふつふつと沸く。

外国に住むということのメリットは、言葉が通じないことだ。
メリットというと、いささか語弊があるけれど、自分にとって自明的ではない言葉に囲まれて
絶対的なコミュニケーション不全に陥るがゆえに獲得できる欠落感や否応なく気付かされる人間の先天的に持った"病態"というものがあるからだ。(獲得できる欠落感?なんだそれ)

たとえば、外国人と膝を交えて話をしているときに、どうしても自分の考えや意図が通じないという場面は多分にしてある。そんなときは悲しいし、無力感を感じずにはいられない。
けれども考えてみれば、日本人同士だって言葉が通じないことは多々あるじゃないか、と思う。
会話の成就は、ボキャブラリーや知識の多寡にだって因るし、世代が違えば、環境が違えば、性別が違えば、分かり合えるどころか、まったく気持ちが通じないことさえ、ざらにあるのだ。
仲間内で一人だけ話についていけずに、置いてきぼりを食うこと、"ローカルネタ"や"KY(空気読めない?)"という状態にだってコミュニケーションの不全は見られるのだから。

そもそも、ぼくらはいったいどれだけの人とシンパシーを感じ、あるいは気持ちの伝達を達成できているのか。
ぼくらは無意識下で、気持ちを十全に伝え合うことなどそう簡単にできるものではないということにおいて"のみ"黙諾を完了させているがゆえに、「いいよ俺、その意見で。同意っス。」という付和雷同状態に陥るのである。
ようするに、対話において、コミュニケーション不全は、意識したり自覚したりすることが困難なだけで、もともと内包しているものである。それが日本にいる限り、表面化されることはないだけなのだ。そのようなコミュニケーションへの苛立ちは、外国にいると、希薄になる。「言葉にすればいいじゃん」的、自明性がさっぱりと払拭されて、自分の思考が涼やかに透明性を増す。言語外にある音楽的なもの、あるいは言葉の風景が見えてきたりする。

コミュニケーション不全がもたらす弊害はいくつもあるけれど、(センソーとか、性差とか)コミュニケーション不全が奏功して描くミニマルな世界は、とても素敵だと思う。
(だからぼくは外国に行く代わりに愛猫との対話で、会話能力の涵養を図っているわけです。)


語学学校の中庭にある石のベンチに寝転んで、フランスの太陽(そんなものがあるんだよ本当に。)
を浴びながら、授業の終了ベルを聴いていた時間、
夜、街の灯りも届かない丘に登って、空を見上げ無数の星を見上げた時間、
(信じられないだろうけれど、夜空の青い表面積より星のほうが多いのだ。)
そこには、語学学校に響き渡る動詞の活用も、眼下の雑踏も消えて、
地続きの、いや空続きの世界があった。

ぼくの老師は、はじめの授業で、「太陽の曲を書いてこい。」と言った。
翌日に半ば徹夜で書いた譜面を持って行くと、「これはイタリアの太陽ではないな。」と言って、
何時間もかけて書いた音符たちを消しゴムで綺麗さっぱり消して(油性ボールペンで書けばよかった・・・)「イタリアの太陽は・・・」と呟きながら、五線譜の上に輝く太陽を昇らせた。
当時、ぼくは「十人十色、人それぞれの太陽があったっていいじゃねーか。なんだその決め付けは。」と思ったものだった。けれど、
彼が言いたかったのはそのような限定された思考ではなく、世界が共鳴する色彩であり、言語外のイデアだったのだと思う。
老師との会話は極端に少なかったけれど、レッスンの間中、
淀みない言葉のやりとりが宙に浮かんでは消えた。(ゆえにぼくのイタリア語はザルなんですね。)

二年後にシチリアのエガディー諸島を自転車でちりんちりんと周遊したときに、ぼくは初めてイタリアの太陽を発見した。あの牧歌的な旅は素敵だった。
ハッピー。



新しい曲を作らなければならない。
どうも近年、作りたい曲と、作った曲との間に、乖離がある。
あたりまえといえばあたりまえで、至極当然なことなのだけれど、その溝が昔よりも深い気がする。
頭の中のイメージを鍵盤で叩く、あるいは採譜して具現化する過程で、
当初持っていた輝きは、失われてゆく。
この乖離については、いろいろな人が同じ文脈で書いているけれど、
作品が少しずつ姿を現すたびに、「あれ、おかしいな。こんなもの作るつもりだっけ・・・」という違和感は誰もが感じることなんだと思う。
自分の発語した言葉が、往々にして本心から少し離れた場所に軌跡を描くときのように。
あるいは、眠りから覚めて目を開けると、今見ていた夢の筋書きがまたたく間に消えてゆくときの喪失感とも似ている。
歌っていない歌が響いて、語ろうとしていない言葉が語られること、それらが唯一、世界に彩りを与える瞬間なのだと思う。