少年アナーキー


友人の結婚式に出席。
とても気持ちの良い、心のこもった式だった。
進行役を務めるおねぃさんも、仁王のごとく佇立した御父さん×2も、煙草をぷかぷかふかしながら野次を飛ばす気のいい友人たちも、一様に笑顔だった。
式には諸種のグループが参加していた。
様々な境涯の方(たとえばぼくのような無芸無職の人)が列席され、
様々な気風の方(たとえばぼくのような少年アナーキーな人)が参会され、
様々な性癖の方(たとえばぼくのようなウエストフェチな人)が来臨された。
わたしがもし結婚式をあげたなら(あげないけど。)出席してくださる方は、無芸無職でウエストフェチの少年アナーキーだけであろう。

肌合いの異なる方々が一堂に会し、幸福でいられるのは、ひとえに新郎の人柄によるものだ。わたしじゃこうはいかない。同輩との再会(10年ぶり!)も含め、素敵な時間だった。 ハッピー。
(それにしてもぼくらは今年で28だ。ということを実感する。一方は結婚し、他方(式場では約2名)は、のほほんとソノヒグラシをしている。まさに酔生夢死である。いや結婚以前に、生業を確立することが喫緊の問題ですが。)


父と父の友人たちの還暦を祝う。彼らこそまさに少年アナーキー。おめでとうございます。



ARICAプロデュース、首くくり栲象の公演を観に行く。
最近観たパフォーマンスのなかでも、群を抜いて素晴らしかった。『首くくり栲象』は、97年から現在に至るまで、日々自宅の庭の椿の木で首を吊り続けるというある意味反モラル的な行為を10年以上刻んでいる奇人なんだけど、それがあまりにピュアで生死のテーマを微塵も感じない洗練されたものだった。哀しくて、それでいてポップな空間が肌に滲んだ。土方巽も、首くくり栲象のような深淵な精神世界を反コンセプチュアルに表現した人だったのかもしれないなと、思った。
そういえば最近バットシェバも観た。良い意味でも悪い意味でも、完成された公演だった。純度の高いダンスだったと思う。
ダンスを観るのは素敵なことだ。みんな最終的には映画を作りたいというけれど、ぼくはダンスの舞台が作りたい。(首くくり栲象も『ダンス』にカテゴライズしてしまったけれど、ダンスなのかね。)
Wikipediaによると、「ダンス(dance)とは、感情や意思の伝達、表現、交流などを目的とした、一定の時間と空間内に展開されるリズミカルな身体動作。」だそうだ。なるほど、反論の余地なし。


ビューティフル・マインド』を観る。毎度のことながら号泣する。
プロットというか、『善き人のためのソナタ』に似ている気がした。
統合失調症に罹い、幻覚を信じ込んだ主人公に、医者が「そう考える頭が病んでいるんだ。」と言い放つ場面がある。自分の確信に満ちた考えや、目に見えている風景が、もしかしたら正しくないかもしれないと、自らの真偽判定を傾斜させることは、ぼくたち健常者にとっても、恐ろしく困難なことだ。それでも主人公の数学者は、妄想を隣人として認め、人生の軌道を修復してゆく。
そう考えると、僕たちは皆、多かれ少なかれ病んでいるのかもしれない。虚像にしがみつきながら、現実とその際で、絶えず思考し吟味しているのかもしれない。


潜水服は蝶の夢を見る』を観る。
それにしても、映画料金が1800円もするというのはいかがなものか。学生や貧乏人は映画を観るなと言っているようなものである。同様に、リハーサルスタジオやパフォーマンス等の稽古場も高すぎる!そんなに高くするなら、料金表に「芸術活動はなるべく控えて、まともな仕事に謹んで頂きたい。」と注釈するべきである。

閑話休題
『潜水服が蝶の夢を見る』は凡庸な映画だったけれど、当映画で描かれる迫真のコミュニケーションはとても音楽的だった。瞬きを使ってアルファベットを選び取り文章を紡ぐ行為は、まさに12音のブロックから一つを選び、音と沈黙で組み立てる作業そのものである。 (武満徹はとてもデザイン的に作曲する人だったに違いない。関係ないけど。)

渋谷のブックファーストが見当たらないので、紀伊国屋へ。
新書コーナーで柴田元幸などの本を買う。
なぜ新書の平積みは「ダメな女」や「なぜ人を殺してはいけないのか」や「イチローは天才ではない」などが幅を効かせているのだろうか。ダメな女に描かれるダメな女や、人を殺すような精神状態の人間や、イチローを天才だと思っている人は新書の啓蒙本など読まない。ダメな女を睥睨し、人を殺す人間を差別し、努力することそのものが能力だという認識のない方々が、そのような本を読んでカタルシスを得るのだろう。

車内で、養老孟司の「無思想の発見」を読んでいて、目が覚める。

男女を対立概念と思うから極端なフェミニズムが生まれる。男女は対立ではなく、両者を合わせて人間である。同じようにウチとソトを合わせて世界であり、「ある」と「ない」を合わせて存在である。

実に音楽的なセンテンスですね。まさに音と沈黙を合わせて音楽なんですね。武満先生。 フォームとカウンターフォーム。実にデザイン的でダンス的だ。いや、世界が音楽的でデザイン的でダンス的なのではなくて、もともと世界は音楽とデザインとダンスで出来ているのかもしれないな。そうに違いない。

思想からデザインへ、世界から音楽へ。ぼくらは軽やかにステップを踏み続け呼吸している。
帰宅後、白ワインを開ける。(友人の美容院の5周年記念で頂いた。)
アンチョビーと長ネギをとろ火で炒め、キャベツとじゃがいもを入れて塩胡椒で味付けしたものを肴に、ごくごく飲む。ハッピー。


バレンタインデイ。
PRONTと下北のKATE CAFFEの店員さんにコンビニで売っている30円ぐらいのチョコレートを頂く。「ありがとう、お礼をしたいから電話番号教えてくれる?」とは言えずに、きらきらの笑顔だけ会計と一緒に支払う。女の子たちはいつだって魅力的だ。


木村かをりのピアノを聴きに行く。演目はメシアンの初期から後期の楽曲を選別したもの。
□ステンドグラスと鳥たち
□天の都の色彩
□七つの俳諧
□天より来たる都
□鳥たちの目覚め
など、鳥を題材にした作品を中心に聴かせて頂く。メシアンは山林に出掛けていって、あらゆる鳥の声を採譜したそうだ。鳥のさえずりが粒となって降ってくる。丸い空が見える。ドビュッシーは二次元な絵画を描くけれど、メシアンは多次元的な音を降らせる。木村かをりはくっきりと輪郭のあるピアノを弾いた。閉演後、「あぁ、そうか。なるほど。そういうアプローチもアリだよね。」とニヤけて、作曲したい熱がアクティブとなる。ハッピー。

メシアン:鳥のカタログ/鳥の小スケッチ



8歳のとき描いた絵を発見する。なんて素晴らしいんだ。
8歳までは、こんな鋭利な感性が備わっていたのに、きれいさっぱり払拭されてしまった。凡俗な中学生が似顔絵を描くとき、皮膚の色をそろって異様な肌色に塗りつぶすのと同じように、ぼくらの感覚は、認識(イデア?)が蓄積されると同時に、どんどんリアリティーを失ってゆく。
退嬰的な少年がリアルな世界を再び見つけるのはいつになるのか。アンハッピー。


彼女(猫♀)の生活習慣は劣悪だ。
好きな時間に起きて、腹がすけば飯を喰らい、昼寝をする。友人と気ままに歓談し、使い勝手の悪そうな丸い手で顔を洗う。(ちなみに今はぼくの膝の上で「痒いんだけど?喉がよ?」と甘えるフリをしている。)
けれども、彼女にもひとつだけ、切要な日課がある。一日の決まった時間に、部屋の隅から隅をくまなく点検するのだ。彼女は失われた記憶を探している。(に違いない。)鼻をくんくんさせて、ニャムニャムと呪文を唱えながら神妙な顔つきで、錯綜したこの世界から古来の記憶を取り出そうとしている。彼らはそういうイキモノである。 ご苦労様です。マッサージしてあげましょうか。 でもタキタニ、頼むから扉は開けたら閉めてくれ。隙間風が寒いんだよ。
そういえば、最近タキタニがホーミーを覚えました。最近の泣き声は倍音が含まれているんです。いやマジで。 「にゃわわわわぁぁあぁ゛ー!わぉぉ゛ーん!」って、犬かよ。