焚き火


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寒くなってきました。
先日庭で焚き火をして、焼き芋をつくった。
落ち葉を集めて、煉瓦やらブロックやらを組んでプチかまどを拵えた。
うーむ、火遊びはやっぱり楽しいなー。

小学校のころ、よくキャンプに行った。
石を積んで川を塞き止めたり、岩壁を掘って横穴を空けたりして、友人と日が暮れるまで遊んだ。
当時のぼくらが川の水を塞き止めることにどんなおかしみを見出していたのか見当もつかないけれど、でも、そのときのぼくらのアタマの中には、「コレつくらなあかん」という一種の強迫観念があったような気もする。本能的遊戯というか、神経症患者というか。

でも、火をおこしたり、水路をつくったり、雨風から(あるいは来る敵襲から)身を守ったりすることは人間が本有的に持つ性質だからか飽きることもなかったし、またルーティーンワークのような"業務"でもないわけで、とても楽しかった。
子供たちは『十五少年漂流記』とか『ロビンソン・クルーソー』など、
「順風満帆なシティー生活が一変して、原始的生活を強いられ、それでもうまく生きていく」的冒険物語に憧れる。(ぼくは今でもひそかに憧れている。)
とはいえ、まともな大人は手作りのダムを偏愛したり、無人島で木片をかき集めて仮設基地を作ったりはしない。
(たまに公園にそういう大人がいる。彼らは思い思いの焚き木を集めて上手に暖をとっている。)
職業的大工は仏頂面でいつも鉋をかけているし、
釣り人たちは浮きが持ってくるであろう凶報の通達をじっと待っている。(ように見える)
日銭のために焼き芋を作るとなったら、苦役に違いない。
(結果、街角を漂浪する石焼きイモ屋は、おそろしいほどに値段を釣りあげる。事実焼きイモは高い。あまりに高い。)
そういえば、遠浅の海辺で不法漁をして捕まった人が「アワビを孫に食べさせたかった」と言っているのをテレビで見た。
メディアリテラシーのないぼくなんかは、至極まともな行動理由とモチベーションだと思うのだけど、海域はそれを許してくれないらしい。いいじゃねーかアワビぐらい。そもそも海域ってなんだ?

はぁ、話が二転三転してしまった。とにかく晩秋の夕暮れに食べる焼きイモは格別です。
夕食はタコ(タコがひどく安かった。朝鮮産か?)と茄子ときのこの煮付け、アスパラと豆腐とモヤシのサラダ、あと韓国人の友人から頂いたキムチや海苔なんかを食べる。
夕食後、遅れまくっている新作音源のアレンジに励む。こそこそとキーボードを叩き、採譜する。
音楽は焚き火やダム作りのようだと思う。じょうずに組み立てれば燃え上がって、整合性を極めれば水面は静謐を宿す。
橋本治と、養老孟司甲野善紀の共著「自分の頭と身体で考える」を交互に読みつつ、デュック・エリントンを聴きながら眠る。


もう二ヶ月も過ぎていた。アンリ・カルティエ=ブレッソン展行けず。
フィリップ・ジャンティ・カンパニーの公演にも誘われたけれど、行かず。そういえば、スパンアートの上田風子展も行かなかった。友人のダンス公演は三つとも行けなかったし、ライブも行けなかった。
宇野亜喜良和田誠展は行った。けれど、オープニングだったのですぐ帰宅。弟のブログで見つけたトーマス・デマンド展は行こう。(明後日まで。無理だな。)
このように私達は年をとっていくみたいです。気をつけましょう。