ガタリとリナス

ガタリというユニットを作った。
ぼくが作詞作曲をして、ボーカリストのJessicaが歌うという、
掃いて捨てるほど、どこにでもある、ごくごくフツウのユニットである。

ユニット名のガタリマオリ語で"揺れる""考えが揺らぐ"という意味を持つ単語"NGATARI"からとった。
日本語の擬音語"がたりっ"と似てませんか?なんとなく。
近しい人からは、「某思想家の某F・ガタリとかぶるからやめなさいよ」と忠告されたけど、
ガタリの模る音もちょっとカワイくて、ぼくらの気に入ってしまったし、他に気の利いた名前は思いつかなかった。
(大きな声では言えないけど、ぼくはフランスの現代思想に興味を持っていて、あるいはきっかけはソレかもしれない。まぁ、興味といっても実のところ意味もわからずに、無批判にアンチ・オイディプスなんかを読む"フリ"してるだけだけど。)

名前に込めた主張なんかをあえて綴るのは、なんだか厭らしいけれど、せっかくなので書き留めておきます。("レタス"とか"生姜湯"とか"ちゃがま"みたいな名前にすればよかったかもしれないな。)

揺れている、与さない、ニュートラルでありたい、というのがガタリの中心的なモットーだと思う。(メンバーはその主張を諒としたんだと思う・・・。)
誤解しないで欲しいのは、ガタリの意図する"揺れ"というのは「俺らは高潔なオリジナルで、どんなモノにも属さない!」ということでは、もちろんない。その逆である。
「昨日確信した、そして現在盲信している確固たる視点は、明日にはがらっと180度変わってしかるべき」という"揺れ"のことです。
それは、ぼくらの歌う音楽も主張も、自然と何処かにコミットしてしまっているという病識を持ち、ぼくらが今どこかに属しているということに、せめて自覚的でありたいという、ややペシミスティックな姿勢だと思う。旧態依然の身体を点検すること。確信に満ちた方法に懐疑的であること。
ぼくらはどこにいるのか。どんな色を帯びているのか。
勇敢でありたい。そして出来ることなら、奏でる歌が偶有的に、またニュートラルにあって欲しい。


「で、ガタリの音楽はどんなんなのよ?」と聞かれると、多くの音楽家がそうであるように、答えに窮してしまう。よくわからない。
誰かの音楽を模倣をしていることは確かなのだけど、いったい誰の作品を剽窃しているのかがわからない。(剽窃といっても差し支えないだろう、ぼくらは常に誰かの意匠を拝借しているんだから。)
ただ言えることは、モーツァルトがいて、ショスタコーヴィッチがいて、ラヴェルがいて、フレディ・マーキュリーがいて、ビートルズがいて、彼らの意思が(願わくば)指先や、記憶に溶けていて、ぼくらが書く、歌う。新しくて古くて、既にそこにあるはずのものを見つける。

キュートな映画を観る、美しい珈琲を淹れる、素敵な女の子と食事をする、風化した絵を観る、スルーパスを出す、ページを開く・・・。
無数の動詞たちと、ささやかな想像力とを上手に切り分けて、ゆるやかな秩序のなか、ピアノを叩き、ドラムを弾く。そうやって、ぼくらは幸せの喚起する場所を目指しているのだと思う。

 

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内田樹氏の著書「寝ながら学べる構造主義」に、リナックスOSについて言及されている一節があります。リナスとはリナックスOSを開発したプログラマーリーナス・トーバルズ氏の愛称です。

以下引用

―しかし重要なのは、このOSを発明したリナスさんは、これで天文学的な利益を手に入れることができたのに、それをせずにインターネットに載せて、無料で公開してしまった、ということです。
すぐれたOSが無数の人々の協力によって進歩することのほうが自分一人が大富豪になることよりずっと大事なことだ、とリナスさんは考えたのです。
(中略)
彼が求めたのものは近代的なコピーライトによって「作者」が得るものとは別の方向をめざしています。
近代的な作者は自分の作品を一元的に管理することを求めましたが、「リナックス」に代表される「オープンソース」の思想が目指すのはその逆です。(「オープンソース」というのは、世界の成り立ちについて、私たちに何事かを教える可能性のある情報は、無条件かつ全面的にアクセス可能でなければならない、という考え方のことです。)
リナス氏は自分の作品を世界に開放しました。それを改良させ、発展させ、利用する人々が一人一人その作品の意味と価値を見出すことに委ねたのです。もしこれが文学作品であったとしたら、彼はそれを無償で配布し、それをどう享受しようと、どう改作しようと、どう引用しようと、その自由を読者に委ねたことになります。

引用終わり

自分の語っている言葉(あるいは音)が、知らぬうちに誰かの手によって改竄されて、発表されていたらあるいはとても悲しいかもしれません。(たぶん悲しいと思う。)

でも、ぼくらはいつも、誰かの意思を紡いでいる。
ぼくが作る曲、それは、ぼくが修学した楽典ルールであり、ぼくが盗んだひとつの音階であり、ぼくが記憶したメロディーの一部であり、さっき広げた地図だ。それらの要素をペタペタ貼り付けて、(しかもぼくは他人の作りあげたコンピュータープログラムを用いて音を並べている。)形を作り、自分の作品として発信している。

ぼくらは常に何かを借りている。

リーナス・トーバルズ氏が提唱したオープンソースの思想(アイディアの開放と共有)が、インターネット界を超越して、音楽界、文学界に浸透するには、まだまだ年月が必要だろう。でも、とりあえずぼくらはリナスを歌いつづけます。

つづく。

 

ぼくはコピーライトが嫌いだ。
著作権という主張は、その知的財産において、それが作者のオリジナル(ゼロからの創造)である、という前提を確保しなければ成立しない。でも、作者のオリジナルという前提自体、きわめて危ういものだ。生まれてから一度も音楽を聴かず、楽器の調律にも従わず、感受性を硬く閉じ、かつすべての数理的な秩序から自由である音楽家はいない。(もしかしたらいるかもしれないけれど、彼の音楽を聴いてシンパシーを感じる人はあまりいないと思う。)
作者は先人たちの意志を紡ぐ。限定的な秩序の檻で楽器を奏でる。深く意識に染込んだ誰かの言葉を歌う。そうやって様々なファクターをかき集めて作品を作る。
もちろん意思踏襲は創造行為と言えるし、歴史のそのような"パクり"と僅かな変容が知的文化を支えていることは確かだ。しかし、もっとも重要なのは、彼らが(作者が)「誰かの声を享受している」ことに自覚的であることだとぼくは思う。
たぶん、自分の創作行為の根本を吟味せず、「剽窃」の可能性に一寸の疑いも持たない人々が、「俺はどこにもコミットしていない。」といって、コピーライトの死守を主張するのだろう。
以下引用
―自分が何を言いたいのかを知るためには「他人にも通じることば」を語らねばならない。 それが「語法の檻」ということである。そして、「他人にも通じることば」というのは、その定義からして、「誰かがすでに言ったことば」「その意味がすでに知られていることば」を 組み合わせることでしか作り出せないのである。
その「檻」の中で私たちができるほとんど唯一の創造的なことは、自分が何か斬新なことばを語っているつもりのときにすりきれた常套句を繰り返しているという「病識」を持つこと、その徴候を吟味することで「私たちを閉じ込めているこの檻の構造と機能」について主題的に考究することである。
引用終わり
これは内田樹氏のテクストだけれど、内田樹氏自身、「千賢の教えに従って、その教えを繰り返す。」「これはラカンの受け売り」と書いている。
自分の語っている言葉が、外部からの受け売りであり、手垢のついた他人の言葉であるという事実は確かに(自分が創造者だと盲信している人にはとくに)少々パセティックではあるけれど。