飽きない猫


まず、
9/11 LIQUID ROOMにて
オールナイトのイベントに参加致します。
みんなで遊びに来てください。サタデーナイトだし。
0:00からです。
ガタリ参戦です。
http://www.realtokyo.co.jp/events/view/28840
NGATARI / mophONE / Oba Masahiro / Wada Takashi


8/15のイベントだとか、9/11のライブだとか、何やら政治的主張をしてるミュージシャンみたいだけど
とくに何の意味もありません。まぐれです。
ぼくは政治的には極めてニュートラル、また怠惰な人間であろうと思っているので、
来る選挙だって行かないし、靖国神社参拝についても定見は持っていないし、
もちろん支持政党だってなくて、支持猫種さえない。いやそれはある。
どれだけ選挙カーが耳障りで鬱陶しくても、拡声器をひったくって、宣伝車のタイヤをパンクさせ
候補者を蹴り殺すようなことはしない。たぶん。

明確な立場というものが、きっぱり何かに与することが、人を傷つけて憎むことと、密接に、ほとんど双生児のようにリンクすることなのだと、長い歴史とささやかな経験に教えられた。あと猫に。

まぁそういうわけで、9/11だからって、イベント会場で 星条旗を掲揚したり、あるいは燃やしたりなんてしません。
たぶんな。



悲しき熱帯」を読み始める。
ほとんど苦役に近い、この読書。
人間の身体は、「自分の知らない」ことに、異常なまでの拒否反応を示す。
「知らないことは知らないままでいいだろ?べつに、死ぬわけじゃないし。」
と、身体のヤツは、細胞を総動員させて、脳みそに苦情を申し立てる。
人間の身体は、何をもってしても、「新しい価値観」を受け付けることはないのだ。
観念的には。たぶん。

それでは、旧態依然のアタマを次のステップに移行させるにはどうしたらいいか。
これはもう、身体がその"現在の考え方"に「飽きる」(fed up!)のを待つしかない。
「もうこのフレームワークでは、フレッシュな創造も、他者との共感もありえない」と感じたとき
はじめて人は、古びた視線や、色褪せた世界に気付いて、未開の世界を探し始めるのである。
(猿だね。)

無知からの脱却は、知識の入れ替えがそれを成就させるのではない。
飽きの飽くなき反復だけが、人を成長させ、身体の強度を高めてゆく。

「形稽古」とか、「計算ドリル」とか、「ツェルニー」が重要なのは
それが一番手っ取り早く、身体を倦ませ、次の段階に脳みそを促すからだ。

ゆるやかな知性の涵養などというものは、たぶん存在しない。
健全なノーミソは「無理矢理」「突然」ソレに「飽き」て、次の世界に適応してゆく。

まぁ、これは10年ぐらい飽きもせず、同じ本読んでは、感心してニヤけている自分への苦言なんだが。

・・・

閑話休題

悲しき熱帯」を読んでいたんだ。

気付くと行間の渓谷を視線だけすべりすべって、
内容がぜんぜんアタマに入っていない。

だんだん腹が立ってきたので、猫に「読みますか・・・?」と、おそるおそる尋ねると
「いや、おれイワシ缶食っとく。」と、足早に立ち去った。
おまえには知識欲、いや、
世界の成り立ちや、自分が何者であるかを探求する意思はないのか。
ないんだろうな。いいよなくて。
ヘーゲルは動物が一人称を持たないことを看破したけれど、
こいつはほんとに向上心ゼロだな。
たまにそよ風の研究を熱心にしているけれど。
どーせフリだろう。
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そういえば、
英語には「飽きる」に相当する語彙がないと思っていたけれど
"fed up"というらしい。(イギリスに住んで長い友人曰く)
辞書をひくと

〔興味を失う〕get [grow, become] tired [weary]of,lose interest in; 〔十分過ぎて嫌になる〕have had (more than) enough of,文 be satiated with; 〔うんざりする〕口 be fed up with,口 be sick of

世界各国の言語すべてに合致する観念なんてものは、存在しないというのがよくわかる。
辞書をぺらぺらめくってるだけでは、他言語を持つ人々の価値体系などワカラナイということですね。
とすると、"飽きる"という身体的な動詞を持たない人種も、もしかしたら存在するのだろうか。
飽きない動物には、進化もない気がするけど。まぁいいか。



サッカー選手は本当に、機知と示唆に富んだ素晴らしい名言を残しています。

「ボールを持てば私が主役だ。決定するのは私で、だから創造するのは私だ」
ヨハン・クライフ

「ボール以外のモノを蹴ってはいけない」
大久保嘉人

キャラメルコーンは大袋だけじゃなく、小袋にもピーナツを入れるべき」
中田英寿

スキップするWeb 2.0


猫の一日は大きくわけて四種類の行動から成り立っている。
ひとつひとつ写真つきで検証したいところだけど、紙数(じゃなくてバイト数)がもったいないので割愛。
箇条書きで記すことにします。わかると思います。
1.無反省に石になる
2.そよ風の研究
3.失われた記憶を探し回る
4.くしゃみに過剰反応
ところで、家猫は中間的な速さで家のなかをうろうろします。敵襲から逃げるために疾走するわけでもなく、のそのそと平原を横切るわけでもなく、彼らは、まるでスキップするように、あるいは子馬のように、かっぽかっぽと部屋のなかを闊っ、いや、散策するのです。
カワイイです。



平野啓一郎決壊」を読む。続いて、「ウェブ人間論」を読み、「ウェブ進化論」を読む。
既得権益や大企業のロジックを根本から変えてゆくオープンソースの思想や、googleによる、世界を再編成しようとする挑戦は、痛快だし、ある種のカタルシスのようなものを感じたのだけれど、何か違和感を持ってしまう。なんだろう、この素直に頷けない原因は。
ただぼくがテクノロジーに畏怖の念を感じているだけだろうか。
あるいは、権威に対抗する権力にもまた反感を抱いているのだろうか。
よくわからない。

でもたとえば、アップルストア、mp3への移行は、「音楽にテクスチャーがない」ということを私たちに突きつけた。(レコードのジャケットはテクスチャーではないし、本の装丁が持つ時間を秘めた手触りでもない。タグだなあれは。)
でも、本当に音楽に手触りはないのだろうか。ただメディアが変容しただけなのだろうか、本当に?というような問いが、アップル社の人々にはない気がする。
曖昧にしか書きようがないのだけれど、理性的には肯定するけれど、感覚的に頷けない真因は、そのような「ちょっとまって、これでいいのか?本当に?」という自制がどこにも見当たらないからかもしれない。

ぼくは著作権なんて大嫌いだし、音楽も文章もプログラムコードもオープンソースとして無条件に世界に開放して、不特定多数の人々がアクセスできればいいと思うけれど、彼の(著者の)ネット至上主義的な「自分たちが正しい」という反証もない正義の姿勢には、なんとなく同意することができない。

まぁでも、世界はWeb.2.0によって、変わりつつある、ということは確かなようですけど。(「人間の頭のなかに入りきらない記憶の容量の大部分がネットの世界にある。」―頁177 ウェブ人間論


ブクログという自分の本棚を作るサイトがある。
書架というのは、裸体を曝け出すようなものだと思うかもしれないけれど、他人の書架を見ても、その人がどういう人なのか全然わからなかった。
ブログなどで自己紹介の欄に「好きな食べ物」とか「フェイバリットミュージック」なんて項目があるけれど、いっそ、「嫌いな食べ物」とか「嫌悪する音楽」にしたほうがその人のヒトトナリを明快にするのではなかろうか。
「わたし、村上春樹好きなんですよ」と言われるよりも、「ぼく村上春樹は嫌いです。」という一言のほうが明示的な主張に見えませんか?



最近「夢は何ですか?」と尋ねられて、しばらく考えた後に答えた内容が
二年前に同じ質問をされて回答した内容と真逆であった。
という事実に感動する。
(夢は何?という質問がこんなにぼくの周囲に溢れている事実も素敵だけれど。)



今更だけれど、Travisって、Abbey RoadのHERE COMES THE SUNですよね。いいけど別に。


クッキーそれ自体よりクッキーの匂いのほうが素敵だと思う。
つくづく、そう思う。

脳からの逃走


ひと括りにしてすまないとは思うけれど、
ぼくは主婦がドーナツ屋さんでドーナツを注意深く吟味している姿が好きではない。
スーパーマーケットで、シンボリックな長ネギを携えて、じゃがいもを点検している主婦の様は好きなのだけれど。 何故だろう。ドーナツを選ぶ姿があるいはぼくにある種の無為を思わせるからかもしれない。 若い奥様たちが、「いいとも」を流しながら、ずるずるお茶を啜る光景を想像してしまうからかもしれない。 よくわからない。そういうのは偏見なんでしょうね。



昨日、ピアノの前で譜面をかりかり書いていて、消しゴムでいくつかの音符を消した直後のことだった。 「あ、この箇所消しちゃまずかったかな」と思った途端、左手の小指がCtrlを、中指がZのキーを探して宙を泳いだ。 がーん。 (WindowsOSのソフト全般において、「一つ前の工程に戻す」ためのショートカットキーが、Ctrl+Zなのです。)

良きにせよ悪しきにせよ、「やりなおす、には⇒左手を斜め前方に配置して小指と中指を運用する」というふうに脳みそが訓育されているということだ。自律的身体からの解放である。がーん。

そこには、自律的な意思決定はない。脳から身体へのトップダウン的指令が、中枢神経をすっとばして、直接指先に伝達されているのである。 それはたとえば、熱いものを触ったときに、とっさに耳に手を当ててしまうことと同じであるし、まさしく「非中枢的な身体」と言える。

運動だけがあって反省のない身体、刺激の意味について省察する中枢を関与させないで反応する身体(・・・)「非中枢的な身体」とは決して速く動く身体のことではない。それは知覚情報を統括し統一的な指示を全身に発令するべき中枢を欠いた、「寸断された身体」「アナーキーな身体」である(内田樹著@私の身体は頭がいい


こういうのを職業病とも言えるけれど、この徴候は重要であるように思う。脳から中枢神経(あるいは心)を中継してキーボードを叩く一連の動作の、「心」の部分を通過せずに、身体を応答させるという身体運用はスポーツの訓練においても当然取り入れられているし、楽器演奏においても、緊要な能力である。「とっさの判断」というのは、「めちゃ速い動き」ではなくて、「意志を介在させない動き」なのだろう。 これが、本当の意味での"ショートカット"かもしれない。

それにしても、「時間軸を遡って戻す」という動作が、違和感なく身体化されているというのは、よくよく考えるとまったくスゴイことだと思いませんか?

そう思うとブラインドタッチもすごいよな。頭に「こんにちは」というセンテンスが浮かぶ、たぶん口の筋肉もそれに伴って「こんにちは」と発語する準備をする、右手がKとOを探している間に、左手はWとAの上に置かれる。この同期作業は、母語を(あるいは、熟達した言語を)話す言語活動とほとんど変わらないんじゃないか?

つたない外国語を使おうとしたときに、頭のなかに"こんにちは"と浮かべてから、"Bonjour"と発音することがあるけれど、これは「こ、こ、こん、にち、・・・は」という感じでパソコンの画面を凝視しながら、人差し指だけでキーを叩いているオジサンの心身構造と似ている。 習熟した外国語話者が、ひととぶつかったとき、とっさに「Sorry」と口からでるのは、頭のなかの翻訳活動が省かれているからである。外国語に慣熟するには、言葉を理解するまえに発音するための心身的ストラクチャーをうまく起動させること(ようするに、はえーってことだけど)に他ならない。

文字をペンで書くための指令を出す脳内部位と、言語活動を処理する脳内部位とでは、まったく別であるのに対して、ブラインドタッチ(あるいはChatとか)と、言語活動を司る脳内部位とは、もしかしたら結構近かったりするんじゃないだろうか。(まったくの憶測ですけど・・・)
まぁ、ショートカットも、ブラインドタッチも、すげーよな、自前の手足みたいでさ、って話です。



最近、車内で本読もうとすると、気付くと視線が行間の渓谷をするりするりと滑り進んでしまい、ページは進んでるのに、頭んなかにぜんっぜん入ってこない。足跡も見えない。そういうことって、あるよね。年か?


カポーティの「夜の樹」を探しています。絶版らしい。
誰か貸してください。

「樹の下に誰かが、―なにかがいるわ!」草の竪琴

NADiffで、新国誠一の本をジャケ買い
こういうコンセプチュアルで、けれど、意味性を徹底的に否定したようなものは好きだ。デザインだもんね彼の詩は。ダンス。 湯浅譲二西村朗の本も購入。


20日、赤坂GRAFFITIでのライヴ。
To the southさんとのタイバン。完成度高し。
服部龍生さんのベース演奏、からだが楽しくなる。素敵。
またぜひ観たいと思うステージは本当に久し振りだ。
少しお話をして、良き薫陶を受ける。


Antony Hegartyの声がすごくいい。
V for Vendetta [Soundtrack]

http://jp.youtube.com/watch?v=BWV4N-ZcDJg

半ドン、新年

イナダやワラサがブリの幼魚だったなんて、はじめて知りました。
そういうことって、わりに知らないよね。
イナダもワラサも非常に美味しい魚だと思うけれど、ぼくはブリをあまり好きではない。

明けましておめでとうございます。
年末から体調を崩し、お正月は一歩も外へ出ることもなく寝込んでいました。布団のなかでツルゲーネフの「はつ恋」と手嶋龍一の「ウルトラダラー」を交互に読んでみる。治らない。
海を飛ぶ夢」を観たりする。

四日目を過ぎて、やっと快復し、ぼちぼちと家族や友人に新年のご挨拶をする。
ひどく遅れて初詣にも行った。
ぼくはひどく出不精、というか、余分な外出に時間を割くのが嫌いなのだけれど、季節モノの行事は大好きなので、雑踏にもまれようが、貴重な一日が潰れようが、一年に一度のイベントごとは、多いに堪能させていただく。人日の七草粥も好きだし、Thanksgiving Dayのターキーも好きである。両日とも何に感謝する日なのか知らないので、蒙昧な信仰ではあるけれど。
ただ、季節モノのイベントに意味性やイデオロギーを勘定に入れて是非を判断することもないんじゃないの、とぼくは思う。
もっぱら日本ってゆるい国だし。

クリスマスには華やかなイルミネーションの下を闊歩して、プレゼントを交換し、お正月はお雑煮を食べて賀詞を述べ、凧を引っ張りまわして バレンタインにはチョコレートを食いまくればいいのである。年間を通して宗教的理念がなく、かつ思想的にかなりアバウトな(というか無思想マインドな)この国は非常に住みやすいし、何より愉快じゃないですか。

文化的にも、宗教的にも、ここまでフレキシブルな国って、そうはないよ。とくに日本人のダイナミックな言語感覚は本当に凄まじい。
シュークリームは仏語の「chou シュー(キャベツの意)」と英語の「cream クリーム」の造語だし、プチトマトとか、パンチラとか、ドタキャンとか、満タンとか、フリーターとか、驚愕の言語的創作だと思いませんか。日本すごい。

というわけで、12月から1月にかけて、世間は行事盛りシーズンであるので、わりとうきうきして外出するのである。
セールもあるしね。
今年もよろしく。

チューリップは判ってくれない

展示と読書

石内都@目黒美術館
サリンジャー戦記村上春樹×柴田元幸
子どもは判ってくれない内田樹
ワンピース最新刊

ジャック・デリダエクリチュールと差異

一行とて意味がわからない・・・。
苦役の読書以前に、判読不能、理解は絶無、ロシア語を眺めているほうがまだ愉快である。
豆腐にかけたのが醤油ではなくソースであったときのような
諦めと無力感が喉元までせりあがってくる。
よかったらどうぞとブックカバーをつけて愛猫にあげる。


猫が神妙な顔つきで、床に鼻を擦りつけながらうろうろしている。
失われた記憶を探しているように見える。
あるいは、身体の底を覗いているダンサーのようだ。
いずれにせよ、コイツ暇そうだな。


山口薫展

とっても良かった。美しい。
何かに対して美しいと思ったり発語したとき、
自分のその感情が現在よりちょっと昔にある気がして、
また、それらは少し哀しみを帯びている気がする。
懐郷の念がそうさせるのでしょうか。よくわからない。
最近良いものを見ると、やたらとノスタルジックに見える。
でもこれって別に、懐郷の念ではないように思われる。
郷愁というのは別に遠い故郷や、過ぎ去った記憶にのみ寄り添う感情ではない。

「そこに行きたかったんだけど、実際そこに行くことができなかった」場所や
「ずっとそこにいたかったんだけど、立ち去ることを強いられた」過去や
「欲しかったんだけど、ついにそれを得ることができなかった」モノに対して
人は強く感情を残す。

ノスタルジーとは、そのような「強く欲したことのあるモノの記憶」が長い時間をかけて醸成し、自分自身の記憶として顕在化したにすぎない。
だから、行ったことのない美しい場所にこそ人は強く追懐の念を抱き、
夕方の公園をみては、里心がついて目を細め、
綺麗な女の子をみては、思慕にトリツカレて後を追いかけたくなるのです。
(5時の鐘が過ぎても親に強制帰宅を促されなかった人は、たぶん夕方の公園にノスタルジーなんか感じないであろう。)

過去の自分(あるいは他者?)が欲しがったものへの欲望は、
とても潜伏期間が長く、感染力が強い。
ノスタルジーとは、故郷を懐かしむ気持ちではなくて、故郷の(あるいは欲求の)忘却を成就させるまでの、遠い記憶に対する留保された価値である。

だからノスタルジーは未来的だ。過去からずっと続いて現在を通過して行く、先々への希望(あるいは絶望)とも思える。美しいものはいつだってノスタルジックであるが、ノスタルジーという感情は、美しくはないし、また過去形で語ることもできない。
あれ・・・。何言いたいんだか、よくわかんなくなってきましたね。
ともかく山口薫の絵は非常にまったくノスタルジックであった。




チューリップの球根を頂く。
水につけておくと、早々と根っこが水底に向かって伸びだした。
なんてイノセントなんだ。そしてなんて節度がないんだ。
でもこいつは水分が欲しくて食指を伸ばしているわけではない気がするな。
自分を「ここ」に縛り付けるために、また、自在であることを自制し続けるために
水、あるいは土の底に突進している気がする。
他の動植物と過剰なコミュニケーションをとらないようにするために。
無関心を装うために。
植物は寡黙でもないし、饒舌でもない。
ただ、世界を達観するだけだ。
彼らは天地をはっきりと示すけれど(示さないヒネたやつもいるが)
それは、世界を倦厭していった末に残る唯一の中立的な振る舞いであるように思う。
そうか、こいつは節度がないのではなくて、
節度を欠いた生物間の協定やミューチュアルにうんざりしてるだけなんだな。
いざとなったら、根っこや樹枝をばたばたさせて、大空に羽ばたくのかもしれない。
そして、我々もそれにうすうす気付いてるからこそ、
物語のなかで、繰り返し擬人化した樹を描き、植物に対して畏敬の念を抱く。
やっぱりこいつを土に埋めるのはやめようか。怖いし。
ただ、我々が植物から学ぶのは、彼等の寡欲さでも、淀みのない思考でも、あるいは清いほどの節度でもない。(やっぱりどう考えてもある種の節度はないし。)
欲望を自制しつつ、本能に忠実にいること、このやや背理的な生え方、いや生き方である。

名前はカジくんにします。